義昭将軍宣下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
10月14日、義昭軍は洛外六条の本国寺、織田軍は洛東の清水寺に入った。その2日後、義昭は将軍宣下を受けるためにわずかな供を連れて上京の細川京兆邸に移り、信長も細川被官宅に入る。朝廷は18日に義昭を従四位下・征夷大将軍・参議・左近衛中将に叙任した。義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、後に関白近衛前久と参議高倉永相は大坂本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄とともに阿波に下った。これに対し、先に越前に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられた。 10月22日、新将軍義昭は参内し、翌日は五番立の能を催して信長らをねぎらった。信長は26日に岐阜への帰国の途につき、義昭は月末に御座所を下京の本能寺に移した。
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