義朝との対立
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為義が復帰を果たしたのと時を同じくして、東国から義朝が戻ってきた。義朝は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義と競合・対立していくことになる。 摂関家では藤原多子・藤原呈子の入内競争により藤原忠実・頼長父子と忠実長男・藤原忠通の対立が頂点に達し、久安6年(1150年)9月、激怒した忠実は忠通を義絶し、藤氏長者の地位を剥奪して頼長に与えた。この時、為義は忠実の命により四男の源頼賢と共に摂関家の正邸・東三条殿と宝物の朱器台盤を接収している。頼賢は久安5年(1149年)に左衛門少尉に任じられ、不祥事を起こした義賢に代わって後継者の地位にあった。 為義が仁平2年(1152年)に検非違使別当・徳大寺公能の訴えで恐懼に処される(『本朝世紀』8月26日条)など失態を繰り返すのを尻目に、義朝は仁平3年(1153年)に下野守に任じられ、父を抜いて受領となった。為義は義朝の勢力基盤を切り崩すため、能登の荘園の預所を年貢未納で改易されていた義賢を上野国多胡荘に下向させた。京では頼賢の捕らえた犯人を源義康(妻は熱田大宮司家の出身)が奪い取って合戦寸前になるなど(『本朝世紀』仁平3年6月5日条)、河内源氏内部で為義派と義朝派の対立が深刻化していった。 久寿元年(1154年)になると、為義には次々に災難が降りかかった。11月、鎮西に派遣した八男・源為朝の乱行の責任を問われて解官された。翌久寿2年(1155年)には頼賢も春日社の訴えで解官された(『台記』5月15日条)。『兵範記』保元元年7月10日条によれば、鳥羽法皇の勘責により一族がまとめて籠居させられたという。この時期、院周辺では美福門院・藤原忠通・信西らによって藤原忠実・頼長を追い落とす工作が進行しており、為義一族に対する圧迫もそれに連動したものだったと考えられる。東国に下向していた義賢も、大蔵合戦で義朝の子・源義平によって滅ぼされた。 保元元年(1156年)、保元の乱では、為義は頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝、平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後、東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し、出家する。義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命に奔走するが許されず、一族の未来を義朝に託して7月30日に義朝の手で斬首された(場所は『兵範記』では船岡山、『保元物語』では七条朱雀)。享年61。 中央での栄達には縁がなかったが、経済的には河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏本拠地伝来の財産があり、義家の六条堀河第を受け継いで裕福だった。また子にも恵まれ、養子や猶子も多く存在した。為義の娘の一人・鳥居禅尼は熊野水軍の指導者・熊野新宮別当家の行範(19代別当)に嫁ぎ、範誉(那智執行)・行快(22代別当)・範命(23代別当)らを産んでいる。
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