義朝との対立とは? わかりやすく解説

義朝との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:01 UTC 版)

源為義」の記事における「義朝との対立」の解説

為義復帰果たしたのと時を同じくして、東国から義朝戻ってきた。義朝妻の実家熱田大宮司家通じて鳥羽法皇接近し摂関家と結ぶ為義競合対立していくことになる。 摂関家では藤原多子藤原呈子入内競争により藤原忠実・頼長父子忠実長男藤原忠通対立頂点達し久安6年1150年9月激怒した忠実は忠通を義絶し、藤氏長者地位剥奪して頼長に与えた。この時、為義忠実の命により四男の源頼賢と共に摂関家の正邸・東三条殿宝物朱器台盤接収している。頼賢は久安5年1149年)に左衛門少尉任じられ不祥事起こした義賢に代わって後継者地位にあった為義仁平2年1152年)に検非違使別当徳大寺公能訴え恐懼処される(『本朝世紀8月26日条)など失態繰り返すのを尻目に義朝仁平3年1153年)に下野守任じられ、父を抜いて受領となった為義義朝勢力基盤切り崩すため、能登荘園預所年貢未納改易されていた義賢上野国多胡荘に下向させた。京では頼賢の捕らえた犯人源義康(妻は熱田大宮司家出身)が奪い取って合戦寸前になるなど(『本朝世紀仁平3年6月5日条)、河内源氏内部為義派と義朝派の対立深刻化していった。 久寿元年1154年)になると、為義には次々災難降りかかった11月鎮西派遣した八男源為朝乱行責任問われ解官された。翌久寿2年1155年)には頼賢も春日社訴え解官された(『台記5月15日条)。『兵範記保元元年7月10日によれば鳥羽法皇の勘責により一族まとめて籠居させられたという。この時期、院周辺では美福門院藤原忠通信西らによって藤原忠実・頼長を追い落とす工作進行しており、為義一族対す圧迫もそれに連動したのだった考えられる東国下向していた義賢も、大蔵合戦義朝の子源義平によって滅ぼされた。 保元元年1156年)、保元の乱では、為義は頼賢、為朝一族率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後東国落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し出家する義朝は自らの戦功代えて為義弟たち助命奔走する許されず、一族未来を義朝託して7月30日義朝の手斬首された(場所は『兵範記』では船岡山『保元物語』では七条朱雀)。享年61中央での栄達には縁がなかったが、経済的に河内国石川郡壷井大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏本拠地伝来財産があり、義家六条堀河第を受け継いで裕福だった。また子にも恵まれ養子猶子多く存在した為義の娘の一人鳥居禅尼熊野水軍指導者熊野新宮別当家の行範(19別当)に嫁ぎ、範誉(那智執行)・行快22別当)・範命(23別当)らを産んでいる。

※この「義朝との対立」の解説は、「源為義」の解説の一部です。
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