義晴との年齢差に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)
義維と義晴は、どちらが兄で弟か判然としていない。これは義維の生年に疑問が多く、何年に誕生したか明確でないからである。義維を義晴の1歳もしくは2歳年上の兄とする説、同年生まれの兄弟とする説、あるいは弟とする説がある。 まず、義晴の出生が永正8年(1511年)であることは間違いなく、多くの史料によって立証されている。これに対して、義維の出生年に関しては諸説がある。 兄とする記録は以下のものがある。兄とする記録は後世の編纂物が多い。 『公方両将記』では、義維が永正8年に誕生したとし、義晴がその後に播磨で誕生したとしている。 『続応仁後記』では、義維を義晴と同年の兄とし、義維が1歳年上の兄と記されている。 義維の家臣だった者の子孫の記録『平島殿先祖並細川家三好家覚書』や、義維の孫にあたる義種の記録『阿州足利平島伝来記』によると、「義維は65歳で天正元年十月八日に没した」と記録されており、その年齢を逆算すると永正6年(1509年)となる。この記録では義維は義晴の2歳上の兄となる。もっとも、義種は義維死去の翌年(天正2年(1574年))の出生で、この記録も前者は寛永2年(1625年)に、後者は寛永6年(1629年)9月に記されたものであり、信頼性に関して疑問が持たれているのも事実である。 平島公方側の史料『足利家系譜』には、「実は、義維は、十二代将軍義澄の長子なり」とあり、『阿州足利平島伝来記』には、「義晴を将軍襲位させるために高国が、兄弟順を偽って襲位させた」云々とある。とはいえ、『佐竹系図』によると、義晴は「今出川(義稙)ノ爲猶子。義高(義澄)ノ御息」とあり、義稙の意思で義晴が将軍を襲位したと記されている。 同年生まれの兄弟とする記録には以下がある。また、こちらの記述も当時のものではないので、正確性に劣る。 『足利季世記』では、永正8年に義澄に二人の若君(義維と義晴)が誕生したと記されている。この記録に基づけば、同年生まれの兄弟となる。 弟とする記録は以下のものがある。 公家の鷲尾隆康が自身の日記『二水記』(大永7年7月13日条)において、義維を「江州武家(義晴)舎弟」と記している。また、同記には義維が足利義稙の猶子であったことも記されている。 いずれにせよ、『二水記』に記されているように、義晴を兄、義維を弟とするのが当時の人々の認識であった。 義晴が兄、義維を弟として扱われているのは、生母の違いがあるためではないかとする説もある。義維の生母に関しては、以下の説がある。 『二水記』では、 義維が「武衛腹」、つまり斯波氏の所生であったと記されている。 『阿州足利平島伝来記』によると、義維の母は阿波守護・細川成之の娘と記されている。義維と阿波細川氏の関係を見れば、母は斯波氏ではなく、成之の娘と見ることもできる。 義維が足利一門で最高の家格を持つものの、足利氏の分家に過ぎない所生であるのに対し、義晴は歴代の将軍正室に迎えられた日野家の所生であった。そのため、義維の母の位置付けが日野氏の上になるとは考えにくく、そこから年齢の順に関係なく義晴・義維の序列が決まってしまったというものである。ただし、義澄の正室である日野永俊の娘は、永正2年(1505年)に義澄と事実上離縁(出家)しており、年代的に永俊の娘が義晴の生母とは考えにくい。さらに、そもそも義晴の生母は「阿与」という御末(雑仕女)であったという説もある。 また、義晴が義澄の継室とされる六角氏の所出(「武衛娘」とあるので斯波氏娘と同一人物ともされる。この場合、義晴と義維は同母兄弟となる)であったとしても、義維の生母(とされる)である斯波氏または細川氏の方が家格は高い。 このように、上記が事実であるとすれば、義維のほうが生母の身分では遥かに嫡出の男子といえる。 父の義澄は2人の息子を別々の地に送ったが、義晴を播磨の赤松氏に預けたのに対し、義維を細川澄元・晴元父子の実家である阿波細川氏に預けている。阿波細川氏の方が赤松氏よりも家格は上であり、義維の扱いはこの時点においては、義晴より上であった。 結論、義維に関して確実といえるのは、義澄の息子、義晴の兄弟ということだけであり、あらたな同時代資料の発見を待つ必要がある。ただし、義維の将軍就任に対する執念は、自分が義晴の兄あるという自負から来ていたとも取れ、「弟」の義晴よりも「兄」である自身に正当性があると感じていたと見ることもできる。
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