義昭の処遇を巡ってとは? わかりやすく解説

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義昭の処遇を巡って

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「義昭の処遇を巡って」の解説

永禄13年1月信長義昭殿中御掟追加の5ヶ条を加えた。その第一条諸国大名との交流に関して制限加えるもので、義昭御内書を出す場合には信長添状を必要とするものであり、その効力規制加えるものであったこれを機に信長義昭の関係は悪化していった。 元亀3年1572年10月信長義昭殿中掟書徹底求めるため、意見17ヶ条を出したその中で義昭御内書無断発給問題視し信長同盟関係にあった毛利氏との交流監督下に置こうとした。 元亀4年1573年2月9日、輝元は義昭からの推挙得て朝廷から右馬頭任じられた。これは輝元を与党引き入れ毛利氏勢力味方引き入れようとする義昭工作でもあった。 信長義昭動き対抗して、輝元に接近し毛利氏との同盟関係維持しようとした。義昭信長対抗するため、6月毛利氏に対して兵粮料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった。そして、7月18日義昭槇島城の戦い敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身天下静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している。 義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏信長懇意にしていることや、かつて毛利氏将軍家疎かにしないと提出した起請文反故にされていることが批判されている。他方、輝元が秀吉充て同日付の書状では、信長義昭和解し義昭が京に帰還できるよう仲介試みている。 輝元はまた、義昭信長和解仲介する代わりに但馬山名氏支援受けて反抗続け尼子氏残党対抗するため、織田氏但馬への侵攻要請しており、信長同意していた。輝元にとってもまた、織田氏との同盟領国を守るためには重要であり、義昭のために信長敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった他方、輝元は信長義昭仲介あきらめておらず、両者の関係とりもつため尽力した天正元年11月5日義昭和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長派遣され双方使者はともに義昭面会し信長和解したうえでの帰京説得した信長自身義昭帰京認めていたが、義昭信長からの人質求めたため、交渉決裂した。 輝元は義昭処遇に関して信長義昭仲介したが、それは決し室町幕府復興のために尽力したわけではなかった。輝元が怖れていたのは、追放され義昭毛利氏領国下向し、織田氏全面戦争突入することであった信長また、義昭追放畿内動揺している今、輝元が義昭奉じて織田氏との全面戦争踏み切ることは避けたかったと考えられる

※この「義昭の処遇を巡って」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「義昭の処遇を巡って」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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