義昭の処遇を巡って
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永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった。 元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした。 元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任じられた。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方に引き入れようとする義昭の工作でもあった。 信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵粮料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している。 義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている。 輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。 天正元年11月5日、義昭が和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した。 輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる。
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