義教時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:06 UTC 版)
6代将軍足利義教の時代になると、将軍が管領以下を抑制するために御前沙汰によって重要決定を行うようになり、法制や先例、有職故実などに詳しい御前奉行人は公的には将軍の命令書である奉書(奉行人奉書)の作成・加判を行うとともに、御前沙汰などにおける意見や伺事は将軍の裁決に重大な影響を与えるようになり、次第に将軍の私的顧問としての性格も有するようになった。 特に御前奉行人のうち最高位の者を公人奉行と呼んで右筆・奉行人を統括するとともに評定衆の一員に列せられ、これに続く上位数名も引付衆(内談衆)に準じた待遇を受けるようになる。この頃になると鎌倉時代の奉行人であった太田氏・三善氏らの子孫で、代々こうした知識を家伝・家学として伝えてきた斎藤氏・松田氏・飯尾氏・布施氏など限られた家系によって右筆・奉行人などの地位が独占されるようになり、彼らは奉行衆・右筆方として集団を形成していくことになる。彼らはその重要性にも関わらず幕府本来の機構の中では組織の次官に当たる開闔・執事代にまでしか昇進できなかった。なお、奉行人のうち御前奉行人(御前沙汰衆)に達しない者をまとめて御前未参衆と称した。 更に、こうした家々の庶流の中には幕府の役職には就けなかった者もいたが、そうした者の中には有力な守護大名に登用されて司法や文書作成などの分野においてその能力を発揮した者も存在した。阿波国守護細川氏に仕えて応仁の乱後の京都の焼け野原の有様を詠ったとされる飯尾常房(彦六左衛門尉)もその1人であるとされている。
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