足利義教の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 08:53 UTC 版)
足利義教が将軍になると重用され評定衆に加えられ、南都奉行・八幡奉行・東寺奉行などの別奉行を兼務したほか、義教が関係を強めつつあった伏見宮家の担当奉行にも任ぜられた。永享5年(1433年)には伏見宮貞成親王と三宝院満済という義教に大きな影響力を与えた2人の間で所領の境界争いが起きた際にも事態の収拾に奔走している。また、鎌倉府との対立や大内氏と大友氏の争いで混沌する状況下で諸大名や満済への諮問の使者として派遣されている(こうした使者を任されるには、要人の意見を申詞にする聞き取り能力・文書作成能力も必要とされる)。永享5年閏7月延暦寺が対立した為種の配流を求めて強訴を起こすと幕府は為種を流罪にすることにするが、秘かに為種に対して尾張国に身を隠すように命じて事態の沈静化を図っている。その後、永享7年(1435年)に奉行人の筆頭である公人奉行に任ぜられた。永享12年(1440年)に勅撰和歌集である『新続古今和歌集』が完成するが、その中に為種の歌が載せられていることを知った義教は「奉行人の職務に専念していれば和歌を読む暇などない筈だ」と激怒しているが、同年の12月2日には彼の屋敷を御成(訪問)しており、処分される事は無かった。翌年の春にも一時出仕を止められるが、2か月後には呼び戻されている。永享の乱の際には錦御旗の作成について武家故実に通じた為種が世尊寺行豊と協議をしている。
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