足利義昭との関係
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永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、和田惟政や細川藤孝が使者に立ち信長は了承したが、当時は美濃国平定前であった。義昭が幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長と上杉謙信の二人であった。8月14日付で朝倉義景の重臣前波吉継が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる。 同年11月、三好一門の内訌(三好三人衆対松永久秀)が起こり、戦火が畿内全域に広がると、同年12月21日、義昭は六角氏(六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し、翌年2月17日に還俗して義秋に改めた。 「米田文書」の『針薬方』には、「右一部、明智十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉の所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれた永禄9年10月20日以前に、義昭に加勢し、高嶋田中城に籠城した。 永禄9年(1566年)4月、義昭側が織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長は同年8月29日(1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され、上洛は頓挫した。 同年8月3日、矢島を襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本で迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏が松永久秀を圧倒した三好三人衆と手を結んだため、同年8月29日夜半、義昭は妹婿である若狭国守護・武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏の家中で騒擾が起き、攪乱していたため、越前の朝倉氏を頼り、同年9月8日、敦賀に至った。しばらくここで過ごした。 永禄10年(1567年)11月21日、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し、永禄11年4月15日に元服して義昭に改めた。光秀は安養寺から3キロほど離れた東大味に居住していたとみられる。 義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなった。しかし、義昭が上洛を期待しても義景は動かない。光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧め、そこで義昭は永禄11年6月23日(1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、前回の破綻を踏まえて今回は光秀を通じて要請した。2回目の使者も細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀が史料にまとまった形で初めて登場する。この記事に「信長の室家に縁があってしきりに誘われたが大祿を与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室である濃姫(道三娘)が光秀の従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される。斎藤利治も末子(弟)で同様との指摘もある。しかしながら、信長は永禄8年(1565年)に上洛の意志があることを表明しており、永禄9年以降、藤孝はしばしば義昭の上使として自ら尾張へ行っているため、この光秀のすすめによって藤孝が信長との交渉を始めたという『細川家記』の記述は疑わしい。 永禄11年7月頃、美濃国を併呑し、北伊勢を攻略した信長が義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭は越前を去り、同年7月22日、美濃国岐阜に到着した。 小和田哲男は、将軍・義輝の近臣の名を記録した『永禄六年諸役人附』「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」(『群書類従』収載)に見える足軽衆「明智」を光秀と解し、朝倉義景に仕えるまでの間、足軽大将として義輝に仕えていたとする。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載された人名から前半の義輝期と後半の足利義昭の将軍任官前の二部に分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。なお、この足軽衆とは雑兵ではなく、行列などの際に徒歩で従う侍のことであり、戦場で稀有の働きを期待された精鋭部隊の兵士という意味であり、将軍義輝の段階で創設され、出自は多士済々であるが、将軍直臣でない者たちで構成されていたとされる。これは末尾に名字だけで記載され、当時の義昭にとって光秀は取るに足りない存在だとうかがわせる。室町幕府では、土岐氏は三管領四職家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。また、光秀を奉公衆「土岐明智氏」と直接結びつけた現存の系譜の信憑性に疑いを持って「土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある。しかも、光秀が幕府に仕えた頃には、所領を失って領主としての性質は持っておらず、越前の朝倉義景に属していたわけだから、奉公衆ではなく、足軽衆とする幕府の判断も妥当だろう。また、細川家の宿老クラスだった薬師寺たちが、足軽衆に編制されていた以上、「立入左京入道隆佐記」で美濃守護土岐氏の重臣の一人だったとされ、薬師寺たちと同様の立場だった光秀が足軽衆に繰り入れられていたのも、当時の身分編制からすれば、おかしなことではない。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず、足軽衆「明智」は後世の追記と見る説もある。 小林正信は、永禄の変で父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆の実力者の進士晴舎の息子・進士藤延が生き残り、改名して明智光秀になり、光秀の妹・御ツマキは義輝の側室小侍従局、光慶は小侍従局が産んだ義輝の子である、と主張している。
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