足利義昭との関係とは? わかりやすく解説

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足利義昭との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「足利義昭との関係」の解説

永禄8年1565年5月19日三好三人衆松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺院主周暠殺害され永禄の変)、院内幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶足利義昭)は同年7月28日大和国から脱出し翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して和田惟政屋形入った。この脱出には、朝倉義景働きかけもあった。その直後から義昭織田信長を含む各地武将上洛自身将軍擁立促し和田惟政細川藤孝使者に立ち信長了承したが、当時美濃国平定であった義昭幕府再興でもっとも期待をよせていたのは、織田信長上杉謙信二人であった。8月14日付で朝倉義景重臣前波吉継義昭越前迎え意思表明した返書和田惟政宛て送っており、光秀が義景から派遣され可能性考えられる同年11月三好一門の内訌三好三人衆松永久秀)が起こり戦火畿内全域広がると、同年12月21日義昭六角氏六角義賢)の好意で同じ近江国内の野洲郡矢島(現・滋賀県守山市)の少林寺に移座し翌年2月17日還俗して義秋改めた。 「米田文書」の『針薬方』には、「右一部明智十兵衛高嶋田中籠城之時口伝也」という奥書を持つ沼田勘解左衛門尉所持本を、米田貞能が近江坂本において写したとあり、光秀はこれが書かれ永禄9年10月20日以前に、義昭加勢し高嶋田中城籠城した。 永禄9年1566年4月義昭側が織田斎藤両家の間に和睦を結ばせたので、信長同年8月29日1566年9月12日)に美濃の国境へ出兵したが、斎藤龍興によって撃退され上洛頓挫した同年8月3日矢島襲撃しようとした三好三人衆の兵を坂本迎撃して、難を逃れ、また同年夏頃、六角氏松永久秀圧倒した三好三人衆手を結んだため、同年8月29日夜半義昭妹婿である若狭国守護武田義統の下に逃れたが、この頃武田氏家中騒擾起き攪乱していたため、越前朝倉氏頼り同年9月8日敦賀至った。しばらくここで過ごした永禄10年1567年11月21日朝倉氏本拠地である一乗谷(現・福井県福井市)の安養寺に移座し永禄11年4月15日元服して義昭改めた光秀安養寺から3キロほど離れた東大味に居住していたとみられる義昭信長不信募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地援助求め朝倉義景頼ったことから、光秀義昭接触を持つこととなった。しかし、義昭上洛期待しても義景は動かない光秀は「義景は頼りならないが、信長頼りがいある男だ」と信長勧め、そこで義昭永禄11年6月23日1568年7月17日。『細川家記』)、斎藤氏から美濃奪取した信長対し上洛して自分征夷大将軍につけるよう、前回破綻踏まえて今回光秀通じて要請した2回目使者細川藤孝だが、信長への仲介者として光秀史料まとまった形で初め登場する。この記事に「信長室家に縁があってしきりに誘われたが大祿与えようと言われたのでかえって躊躇している」と紹介している。光秀叔母斎藤道三夫人であったとされ、信長正室である濃姫(道三娘)が光秀従兄妹であった可能性があり、その縁を頼ったとも指摘されている。また、従兄妹でなくても何らかの血縁があったと推定される斎藤利治末子(弟)で同様との指摘もある。しかしながら信長永禄8年1565年)に上洛意志があることを表明しており、永禄9年以降はしばし義昭の上使として自ら尾張行っているため、この光秀のすすめによって孝が信長との交渉始めたという『細川家記』の記述疑わしい永禄11年7月頃、美濃国併呑し、北伊勢攻略した信長義昭に「上洛戦のお供をしたい」と言上してきたので、義昭越前去り同年7月22日美濃国岐阜到着した小和田哲男は、将軍義輝近臣の名を記録した永禄六年諸役人附』「光源院殿御当参衆并足軽下衆覚」(『群書類従収載)に見え足軽衆「明智」を光秀解し朝倉義景仕えるまでの間、足軽大将として義輝仕えてたとする。しかし『永禄六年諸役人附』は、記載され人名から前半義輝期と後半足利義昭将軍任官前二部分かれ、「明智」の記載があるのは後半部であり、義昭時代から足軽衆として仕え高位ではなかったとも言われる。なお、この足軽衆とは雑兵ではなく行列などの際に徒歩で従う侍のことであり、戦場稀有働き期待され精鋭部隊兵士という意味であり、将軍義輝段階創設され出自多士済々であるが、将軍直臣でない者たちで構成されていたとされる。これは末尾名字だけで記載され当時義昭にとって光秀取るに足りない存在だとうかがわせる室町幕府では、土岐氏三管領四職家次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族幕府奉公衆となり、土岐明智氏などは将軍家結んで独自の地位築いた。その奉公衆外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系連なる者を、形式的な伝統重んじ家格配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり、「土岐明智氏」なのか疑問もたれている。また、光秀奉公衆土岐明智氏」と直接結びつけた現存系譜信憑性疑い持って土岐明智氏」が事実だとしても傍流出身であったとする説もある。しかも、光秀幕府仕えた頃には、所領失って領主としての性質持っておらず、越前朝倉義景属していたわけだから、奉公衆ではなく足軽衆とする幕府判断も妥当だろう。また、細川家宿老クラスだった薬師寺たちが、足軽衆に編制されていた以上、「立入左京入道隆佐記」で美濃守土岐氏重臣一人だったとされ、薬師寺たちと同様の立場だった光秀足軽衆に繰り入れられていたのも、当時身分編制からすればおかしなことではない。ただし、現在残されている番帳(『永禄六年諸役人附』)は原本とは見なされず足軽衆「明智」は後世追記と見る説もある。 小林正信は、永禄の変父子とも死亡記録のある室町幕府奉公衆実力者進士晴舎息子進士延が生き残り改名し明智光秀になり、光秀妹・御ツマキ義輝側室小侍従局、光慶は小侍従局産んだ義輝の子である、と主張している。

※この「足利義昭との関係」の解説は、「明智光秀」の解説の一部です。
「足利義昭との関係」を含む「明智光秀」の記事については、「明智光秀」の概要を参照ください。

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