足利義昭と摂津三守護とは? わかりやすく解説

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足利義昭と摂津三守護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:57 UTC 版)

伊丹親興」の記事における「足利義昭と摂津三守護」の解説

永禄11年1568年9月織田信長が後に第15代将軍となる足利義昭奉じて上洛すると、三好三人衆篠原長房摂津芥川山城越水城を含む全ての畿内拠点放棄し10月2日阿波撤退した。この時、親興は池田勝正と共に信長降り領地安堵されている。その後足利義昭近臣近江の国人・和惟政芥川山城入城し和田伊丹池田の三氏は摂津守護任じられ摂津三守護呼ばれた永禄12年1569年1月三好三人衆和泉国上陸し本圀寺足利義昭襲撃した時には、親興は細川藤孝三好義継池田勝正摂津国衆・荒木村重と共に三好三人衆破っている(本圀寺の変)。 元亀元年1570年6月三好長逸通じた荒木村重池田城から池田勝正を追放すると、同年7月21日三好三人衆摂津中嶋再度上陸し野田城福島城築城した。これに対し信長摂津遠征し野田城福島城包囲した。親興も同年8月足利義昭に従って中島天満着陣したが、8月13日石山本願寺挙兵浅井朝倉南進もあり、足利・織田勢は8月23日山城国向けて撤退している。同27日阿波讃岐軍勢率いた篠原長房兵庫浦に上陸越水城奪還している(野田城・福島城の戦い)。 元亀2年1571年6月11日には篠原長房率い阿波讃岐軍勢畿内再上陸し、河内高屋城畠山昭高信長妹婿)を攻めており、同年8月末には、荒木村重池田知正も、足利義昭方の伊丹親興茨木重朝、和田惟政攻め、重朝と惟政討ち死にした勢い乗った池田勢は茨木城郡山城攻め落とし和田惟長和田惟政の子)の籠る高槻城攻囲した。これに松永久秀久通父子池田勢に加わり高槻城下を焼き払った和田氏親交厚かったルイス・フロイス報告によりこの敗戦知った信長9月9日佐久間信盛を、足利義昭9月24日明智光秀講和為に派遣し荒木村重らは兵を引き上げた白井河原の戦い)。 元亀3年1572年)になると、先の松永久秀続いて足利義昭信長見限り三好三人衆密かに同盟結んでしまう。この状況対し親興は、義昭松永方につくことを選択し同年5月松永久秀三好義継と共に畠山昭高領内河内交野城攻めている。

※この「足利義昭と摂津三守護」の解説は、「伊丹親興」の解説の一部です。
「足利義昭と摂津三守護」を含む「伊丹親興」の記事については、「伊丹親興」の概要を参照ください。

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