足利義昭と摂津三守護
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永禄11年(1568年)9月、織田信長が後に第15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆と篠原長房は摂津の芥川山城、越水城を含む全ての畿内の拠点を放棄し、10月2日に阿波に撤退した。この時、親興は池田勝正と共に信長に降り領地を安堵されている。その後、足利義昭の近臣で近江の国人・和田惟政が芥川山城に入城し、和田・伊丹・池田の三氏は摂津の守護に任じられ、摂津三守護と呼ばれた。 永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が和泉国に上陸し、本圀寺の足利義昭を襲撃した時には、親興は細川藤孝や三好義継、池田勝正、摂津国衆・荒木村重らと共に三好三人衆を破っている(本圀寺の変)。 元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田城から池田勝正を追放すると、同年7月21日、三好三人衆は摂津中嶋に再度上陸し、野田城・福島城を築城した。これに対し信長は摂津に遠征し、野田城・福島城を包囲した。親興も同年8月、足利義昭に従って中島・天満森に着陣したが、8月13日の石山本願寺の挙兵、浅井・朝倉の南進もあり、足利・織田勢は8月23日に山城国へ向けて撤退している。同27日に阿波・讃岐の軍勢を率いた篠原長房は兵庫浦に上陸、越水城を奪還している(野田城・福島城の戦い)。 元亀2年(1571年)6月11日には篠原長房の率いる阿波・讃岐の軍勢が畿内に再上陸し、河内高屋城の畠山昭高(信長の妹婿)を攻めており、同年8月末には、荒木村重と池田知正も、足利義昭方の伊丹親興、茨木重朝、和田惟政を攻め、重朝と惟政が討ち死にした。勢いに乗った池田勢は茨木城、郡山城を攻め落とし、和田惟長(和田惟政の子)の籠る高槻城を攻囲した。これに松永久秀・久通父子も池田勢に加わり、高槻城下を焼き払った。和田氏と親交の厚かったルイス・フロイスの報告によりこの敗戦を知った信長は9月9日に佐久間信盛を、足利義昭は9月24日に明智光秀を講和の為に派遣し、荒木村重らは兵を引き上げた(白井河原の戦い)。 元亀3年(1572年)になると、先の松永久秀に続いて足利義昭も信長を見限り、三好三人衆と密かに同盟を結んでしまう。この状況に対し親興は、義昭・松永方につくことを選択し、同年5月、松永久秀、三好義継と共に畠山昭高の領内・河内交野城を攻めている。
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