足利義明の登場とは? わかりやすく解説

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足利義明の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 07:22 UTC 版)

小弓公方」の記事における「足利義明の登場」の解説

古河公方家の祖である鎌倉公方家は、足利尊氏の子足利基氏以来代々関東支配していたが、次第本家足利義詮系統京都将軍家)の足利家将軍位などをめぐって対立する姿勢見せ始め遂に4代公方足利持氏時代には第6代将軍足利義教武力衝突永享の乱)するまでに至り、これに敗れた持氏は自害余儀なくされ、鎌倉公方家一時滅亡した。持氏の遺児多く結城合戦などで義教殺されたが、義教嘉吉の乱死去する鎌倉公方再興気運高まり、持氏の遺児である足利成氏鎌倉公方として復帰する成長した成氏は、幕府関東管領上杉氏対立して享徳の乱鎌倉追われたが、1455年には下総国古河城本拠として独立した勢力保ち以後古河公方呼ばれる。成氏の死後古河公方家では内紛頻発したが、その内紛のひとつに、第2代公方であった足利政氏と、第3公方であった足利高基父子による対立があった(永正の乱)。 高基には、僧侶となっていた空然こうねん)という弟がいた。そして上総国に、甲斐武田氏分家である真里谷武田氏がいた。この真里谷氏は武田信満次男武田信長古河公方であった足利成氏家臣となって、その命令受けて上総攻め込み同地関東管領である上杉氏所領横領するなどして戦国大名化した一族である。そして、この真里谷氏の第5代当主真里谷信清(恕鑑)には、関東制圧という野望があったが、近隣には古河公方親密結城氏千葉氏勢力存在し真里谷氏はその下風に立たざるを得なくなっていた。そこで信清は空然目をつける。信清は永正年間初め頃に空然還俗させて足利義明と名乗らせ、下総小弓城迎えて小弓公方として擁立し、信清自身は義明を傀儡として実権掌握すると共に、義明が足利氏一族であるという大義名分のもとに勢力関東一帯拡大していったのである(義明の小弓入城年次については永正14年説・15年説と大永2年説がある)。真里谷氏は信清の時代全盛期迎え小弓公方一見真里谷氏の傀儡政権のような状況になった。しかし、義明は傀儡立場黙っているような人物ではなかった。また、安房里見氏千葉一族である下総臼井氏、更に常陸国小田氏が義明の権威利用しよう接近して軍事力提供し反対に真里谷氏の同族である庁南武田氏真里谷氏の拡大警戒して古河公方接近していった。義明が持つ「貴種性」が真里谷氏の思惑越えて広がり、義明自身里見義通対す書状で、本佐倉城千葉氏本拠)・関宿城古河公方最大支城)への野心を示すに至った

※この「足利義明の登場」の解説は、「小弓公方」の解説の一部です。
「足利義明の登場」を含む「小弓公方」の記事については、「小弓公方」の概要を参照ください。

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