足利義昭の二条御所とは? わかりやすく解説

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足利義昭の二条御所(二条古城)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)

二条城」の記事における「足利義昭の二条御所(二条古城)」の解説

二条御所#足利義昭の時代」も参照 義輝の弟・義昭織田信長武力後ろ盾として、永禄11年1568年)に上洛将軍就任後は六条本圀寺居所としていたが、翌12年1569年1月三好三人衆による襲撃受けた本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭側近らの奮戦により防戦成功するが、この報を受けた信長はさらに防備整った城の必要性認識し義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝武衛陣の城のあった地を中心に北東拡張して400メートル四方敷地に2重の堀や3重の「天主」を備え城郭造の邸宅とした。 信長自身普請総奉行として現地陣頭指揮執り御殿などの建築統括する大工奉行には村井貞勝島田秀満任じられた。建物多く本圀寺から移築されさらには屏風絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ細川氏一族分家細川典厩家細川藤賢邸から、文字通り鳴り物入り」で名石藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間終え、その年の4月義昭はここに本拠移した。この城の石垣には京都中から集められ墓石石仏使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初め本格的に石垣積んだであったことを示している。周辺からは金箔瓦発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であった考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方御構へ」などと呼ばれていた。なお元3年1572年3月信長義昭の強い勧めもあってこの城の北方武者小路辺に自らの屋敷着工している(未完成)。建築物奪われることに困った本圀寺僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止取り成し頼んだが無理だ断られた。また1500人の法信徒らが莫大な品を信長献上し、さらに望み通り金銭の提供も申し出て免除請い将軍朝廷にも働きかけたが、信長取り合わなかった。 ところが義昭信長の関係は徐々に悪化し元亀3年義昭信長追討令に応じた武田信玄西上開始し三方ヶ原の戦い勝利を収めたのを知ると、翌天正元年1573年3月義昭二条城において信長対し挙兵する。信長上京町屋焼き払い二条城包囲するが、城自体に対して攻撃控え正親町天皇勅命得て和議成立する。しかし、7月に再び義昭宇治槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家日野輝資高倉永相義昭側近幕臣である伊勢貞興三淵藤英守備のため置かれたが、織田軍に包囲される一戦交えず降伏したこの際御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。 この直後槙島城義昭降伏し畿内から追放され室町幕府実質的に滅ぶことになる。二条城残った天主や門は天正4年1576年)に解体され安土運ばれ築城中の安土城転用された。 昭和50年1975年)から昭和53年1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設先立つ烏丸通発掘調査が行われ、この信長二条城石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘され石垣にあった石仏京都文化博物館及び西京区洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣一部京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。

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