足利義昭の二条御所(二条古城)
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「二条城」の記事における「足利義昭の二条御所(二条古城)」の解説
「二条御所#足利義昭の時代」も参照 義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として、永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)1月、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。 信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され、さらには屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかった。 ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。 この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。 昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。
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