足利義昭の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
しかし、その後も義昭は信長に対して抵抗し、元亀4年7月には再び挙兵して、槇島城に立て籠もったが、信長は義昭を破り追放した。 通説では、この時点をもって室町幕府が滅亡したとされる。このことにより、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている。一方、義昭はその後も将軍の地位に留まったまま、各地を経て備後国鞆へ移り、毛利輝元の庇護を受ける。そして、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出しており、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことでもある。このことから、歴史学者の藤田達生は、依然として義昭の勢力は幕府としての実態を備えており(鞆幕府論)、義昭の「公儀」信長の「公儀」が並立する状態にあったと論じている。この「鞆幕府」という名称が適切かはともかく、藤田の議論の観点は妥当なものであると評価されている。この視点に立てば、これ以後の信長の戦争は、天下統一戦争というよりも、足利氏とそれを支持する他の戦国大名に対する戦いであると考えられる。 幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの100名以上が義昭の鞆下向に同行している。その一方で、細川藤孝ら多くの幕臣が京都に残り信長側に転じた。これらの旧幕臣は、明智光秀の与力となり、室町幕府の組織を引き継ぐ形で京都支配に携わることとなった。 義昭の追放後、元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、7月28日にはこれを実現させた。
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