足利義昭の時代とは? わかりやすく解説

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足利義昭の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 01:48 UTC 版)

二条御所」の記事における「足利義昭の時代」の解説

義輝の弟・義昭織田信長武力後ろ盾として、永禄11年1568年)に上洛将軍就任後は六条本圀寺居所としていた。だが、翌12年1569年1月三好三人衆による襲撃受けた本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭側近らの奮戦により、三好軍を撃退し防戦成功した信長はこの戦い受けて、さらに防備整った御所必要性認識し義昭のために城構え居館造営することを決めたまた、三好氏焼き払われた「光源院義輝御古城」を再興する必要もあった。 御所創建は、かつて義昭の兄・義輝御所があった地が選ばれた。そのため、この地にあった真如堂には「替地」が与えられ普請準備進められた。また、御所義輝武衛陣跡地中心に北東拡張して、約400メートル四方敷地に2重の堀や3重の「天主」を備え城郭造の邸宅とすることにした。 2月2日普請が「石蔵積み」から始められ畿内のみならず、その近国武士参加して進められた。その数は8万人余に及んだという。この城の石垣には、京都中から集められ墓石石仏使われた。山科言継石蔵驚嘆しており、この御所初め本格的に石垣積んだであったことを示している。 信長自身普請総奉行として現地陣頭指揮執り、3ヶ月の間在京し奉行として普請あたった御殿などの建築統括する大工奉行には村井貞勝島田秀満任じられた。 建物多く本圀寺から移築されさらには屏風絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれた。宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、信長木造建築宮殿の造営決心したものの、新たに山や伐採せねばならず、工事遅延することを恐れ本圀寺から「きわめて巧妙に造られ塗金屏風とともに」「すべての豪華な部屋取り壊し、城の中で再建すること命じた」と記されている。『当代記』や『老人雑話』にも同様のことが記されている。 3月3日細川氏一族分家細川典厩家細川藤賢邸から、文字通り鳴り物入り」で名石藤戸石」が御所庭園に置くために搬入された。『言継卿記3月3日条には、「細川右馬頭庭の藤戸石、織田弾正三四千人でこれを引く、笛鼓似てこれを囃す」と記されている。このことから、信長率先して御所普請にあたっていたことがわかる。 築城は約70日という短期間終え4月14日義昭完成した二条御所移動し、ここに本拠とした。周辺からは金箔瓦発掘されており、急ごしらえにしては豪壮な殿舎であった考えられている。また、言継卿記』では、室町通り沿いの「西方石蔵」は高さ「四間一尺」(約8m余)と記されており、壮観な光景であった考えられている。 完成した御所四周は、「東西範囲室町通り東洞院通り」「北は出水通り(近衛大路)、南は丸太町通り春日小路)」と現在では考えられている。このうち西側室町通りであった考えられる。そのため、義昭御所はとても巨大なものであった元亀3年1572年3月信長義昭の強い勧めもあってこの城の北方武者小路辺に自らの屋敷着工している(未完成)。建築物奪われることに困った本圀寺僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止取り成し頼んだが無理だ断られた。また、1500人の法信徒らが莫大な品を信長献上し、さらに望み通り金銭の提供も申し出て免除請い将軍朝廷にも働きかけたが、信長取り合わなかった。 ところが、義昭信長の関係は徐々に悪化し元亀3年義昭信長追討令に応じた武田信玄西上開始し三方ヶ原の戦い勝利を収めた。そして、義昭はそれを知ると、信長からの離反決意した天正元年1573年2月義昭二条御所において、信長対し挙兵した。 3月信長入洛したが、義昭二条御所数千の兵とともに籠城続けた二条御所の戦い)。 4月信長上京町屋焼き払い上京焼き討ち)、二条御所包囲し義昭圧力をかけた。だが、御所自体に対して攻撃控え正親町天皇勅命得て和議成立する7月3日義昭は再び、宇治槇島城において挙兵した。この時、二条御所には公家日野輝資高倉永相義昭側近幕臣である三淵藤英伊勢貞興守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると、12日降伏した信長義昭去った御所占拠し御所内の殿舎破却した。その際諸人によって御所内が略奪されるのを禁じなかった。 7月18日槙島城義昭降伏し畿内から追放され室町幕府実質的に滅ぶことになった槇島城の戦い)。だが、二条御所殿舎破却されたものの、門や石垣、堀は残されていた。おそらく、信長義昭和解したのち、義昭を再びここに迎え入れようとし、そのために殿舎以外は破壊せずにいたと考えられる天正4年1576年9月以降信長将軍御所であった二条御所解体進めた同年2月義昭毛利輝元頼り備後の鞆に動座したため和解がもはや不可能になったと判断したため、解体取り掛かった考えられる同月信長は門や建物取り壊し安土移築した他方石垣諸人略奪させており、不特定多数人間持ち帰ることが許された。 12月信長上京人々命じ二条御所の堀を埋めさせた。これにより、堀もその姿を消すことになったこのように二条新御所建築進められる同時に二条御所解体進められることとなった。だが、二条御所の門や石垣二条新御所転用された形跡はない。

※この「足利義昭の時代」の解説は、「二条御所」の解説の一部です。
「足利義昭の時代」を含む「二条御所」の記事については、「二条御所」の概要を参照ください。

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