足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ
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「明智光秀」の記事における「足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ」の解説
永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。 同年11月15日、近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催し、信長の右筆である明院良政を主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、藤孝らと同座し、6句詠んだ。 永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給に携わり始め、2月29日に光秀・村井貞勝・日乗上人連署で文書を発給している。 同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。 同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。 永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。 同年3月1日(1570年4月6日)、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる。 永禄13年1月26日、公家の山科言継は幕府奉公衆へ年頭の礼に回り、その中に光秀も含まれており、すでに幕府直参の奉公衆となっていた。 元亀元年4月28日(1570年6月1日)、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦に成功する。 同年4月30日(1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。 同年6月28日、光秀は姉川の戦いに参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番稲葉一鉄」と記されている。 同年9月、志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。 元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。 同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる。 同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。 元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。 同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い。同年、坂本城が完成し、居城とした。 天正元年(1573年)7月、村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ。 天正3年(1575年)7月、光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政は原田、丹羽長秀は惟住の名字を与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏の重臣層に加えられたことを意味していた。
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