足利義昭の家臣から織田信長の家臣へとは? わかりやすく解説

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足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ」の解説

永禄11年9月26日1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる。 同年11月15日近衛前久の弟で聖護院門跡道澄主催し信長右筆である明院良政主賓にすえた連歌会で、道澄、雅淳、紹巴、昌叱、孝らと同座し、6句詠んだ永禄12年1月5日1569年1月21日)、三好三人衆義昭宿所本圀寺急襲した本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。その翌月から文書発給携わり始め2月29日光秀村井貞勝日乗上人連署文書発給している。 同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴改姓)、丹羽長秀中川重政と共に織田信長支配下京都周辺政務に当たり、事実上京都奉行職務を行う。 同年10月信長義昭意見食い違い衝突して信長突如として岐阜戻ってしまう。 永禄13年1570年正月信長義昭権限規制する殿中御掟通告するが、宛先光秀朝山日乗で、義昭承諾黒印を袖に押し信長返している。同日信長名で「禁裏将軍御用天下静謐のために信長上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れ全国大名出される同年3月1日1570年4月6日)、信長将軍から離れた立場正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権与えられる永禄13年1月26日公家山科言継幕府奉公衆年頭の礼に回り、その中に光秀含まれており、すでに幕府直参奉公衆となっていた。 元亀元年4月28日1570年6月1日)、光秀金ヶ崎の戦い信長浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿を務めて防戦成功する同年4月30日1570年6月3日)、丹羽長秀と共に若狭派遣され武藤友益から人質取り城館破壊して5月6日帰京する。またこの頃義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。 同年6月28日光秀姉川の戦い参加したようだ。『松平記』には、「越前衆に向て、一番柴田明智二番家康三番稲葉一鉄」と記されている。 同年9月志賀の陣にも参陣しているが、兵力300人から400人と大きくなく、戦の小康状態時に宇佐山城任され近江国滋賀郡周囲土豪懐柔策担当した元亀2年1571年)には、三好三人衆四国からの攻め上り同時に石山本願寺挙兵すると、光秀信長義昭従軍して摂津国出陣した同年9月12日比叡山焼き討ち中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り命令書)武功上げ近江国滋賀郡志賀郡:約5万石)を与えられ間もなく坂本城築城とりかかる柴辻俊六光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書連署状況や、滋賀郡拝領信長没収され延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城入った時点光秀身分幕臣であったが、滋賀郡与えられたのを機に織田家の家臣編入されたとみる。 同年12月頃、義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる。なお、暇願い提出原因として旧延暦寺領の支配任され光秀信長敵対したことを理由所領押領図り義昭怒り買ったからとする説があり、結果的に信長義昭対立一因光秀引き起こした可能性もある。元亀3年1572年4月河内国への出兵従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある。 元亀4年1573年2月義昭挙兵光秀石山城、今堅田城の戦い義昭と袂を別って信長直臣として参戦した信長将軍重んじ義昭との講和交渉進めるが成立寸前で、松永久秀妨害破綻する同年7月、またも義昭槇島城挙兵し光秀従軍した義昭降伏後追放され室町幕府事実上滅亡した旧幕臣には伊勢貞興伊勢一族諏訪直など、その後光秀仕えた者も多い。同年坂本城完成し居城とした。 天正元年1573年7月村井貞勝京都所司代になるが、実際に天正3年1575年前半まで光秀権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書出し単独でも少数出している。京都近郊山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後8月から9月まで、羽柴秀吉滝川一益と共に越前占領行政担当し9月末から溝尾茂朝三沢秀次)、木下祐久津田元嘉代官として引き継いだ天正3年1575年7月光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守任官を受け、惟任日向守となる。同じ日に塙直政原田丹羽長秀は惟住の名字与えられており、光秀は彼らと同格、すなわち織田氏重臣層に加えられたことを意味していた。

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