足利義昭と織田信長の対立
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「槇島城の戦い」の記事における「足利義昭と織田信長の対立」の解説
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府の第15代将軍に就任した足利義昭は当初は信長と協調関係にあった。だが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により、次第に信長と対立するようになった。 元亀3年(1572年)9月、信長から義昭に異見十七ヶ条が突きつけられ、両者の対立は決定的になった。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対して反抗する意思を有していたことは、明白になっていたとされている。義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して、信長を攻撃しようと画策した(信長包囲網)。 元亀3年(1572年)10月、 武田信玄が上洛のために進軍を開始し(西上作戦)、三方ヶ原で徳川家康の軍勢を破った(三方ヶ原の戦い)。だが、元亀4年(1573年)1月頃に信玄の体調が悪化し、武田軍の攻勢は停止している。 2月、義昭は信長に対して挙兵したが、石山城・今堅田城の戦いや二条御所の戦い、上京焼き討ちなどで織田軍に追い詰められた。その結果、4月に正親町天皇から講和の勅命が出されると、信長と義昭はこれを受け入れて講和した。
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