信濃流二階堂氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:56 UTC 版)
鎌倉時代の二階堂行政の子・行光の流れで、行盛の代から政所執事を独占した。相次ぐ当主の急逝や隠岐流に執事職を奪われたことで衰退するが、室町時代になると再び勢いを取り戻し、室町幕府の政所執事や評定衆として活躍した。細かく分けると、行盛の子である行泰を祖とする「筑前家」、同じく行盛の子である行綱を祖とする「伊勢家」、同じく行盛の子である行忠を祖とする「信濃家」に分けられる。 3家とも鎌倉幕府の滅亡や観応の擾乱で足利直義方に付いたことで大きな打撃を受けたが、赦された後は勢力を持ちなおして、康安元年(1361年)の畠山国清失脚後は、行春(筑前家)、行詮(伊勢家)、氏貞(信濃家)らが、隠岐流の行種(備中家)と持ち回りで鎌倉府の政所執事に就任し、永享の乱による鎌倉府崩壊まで執事職を独占した。足利持氏期に執事を務め、その使者としてたびたび室町幕府と交渉した二階堂盛秀は系譜不明であるが、信濃守の受領名から伊勢家の行朝の系統と推察される。 京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する。行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に、義満元服時の政所執事が二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏は縁戚関係にあり、長く執事職を独占してきた伊勢氏が忠行に執事を譲ることを同意したのも大きい)。忠行の子である二階堂政行は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った。 だが、義尚が急死するとその反動で政行は失脚に追い込まれている。その後、嫡男である二階堂尚行が継承し、足利義澄の元服の際には義満・義政の例に倣うということで伊勢氏から1日だけ政所執事を譲られているが父に先立って病死している。尚行の急死後は弟の有泰、その子とみられる晴泰に継承されている。晴泰は足利義昭の時代まで活動しているのが知られるが、義昭が織田信長に追放された後の消息は不明である。 二階堂行朝(信濃流伊勢家)の子で、室町幕府政所執事代となった二階堂行通の子孫に藤原南家乙麻呂流二階堂氏大谷氏(読み「おおや」)の大谷元秀がいるが、「真宗大谷派の大谷家」とは関係ない。
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