信濃滋野姓海野氏流とは? わかりやすく解説

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信濃滋野姓海野氏流(宗家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:00 UTC 版)

小田切氏」の記事における「信濃滋野姓海野氏流(宗家)」の解説

平安時代末期から鎌倉時代初期海野氏武将海野幸氏の子尭元(小田切二郎)が初め信濃佐久郡小田切(現・長野県佐久市臼田上小田切中小田切下小田切)に住み小田切称したのが始まりとされるが、伊那郡小田切邑(現・長野県上伊那郡宮田村南割区)を出身地とする資料もある。その後系譜はっきりしない鎌倉時代初期の頃水内郡小市(現・長野県長野市安茂里小市)に移住する承久3年1221年)の承久の乱では小田切奥太が鎌倉幕府方に加わり京都宇治川にて戦死しており、奥太は奥郡(奥信濃)に移住した小田切氏長男のことであると考えられる応永7年1400年)の大塔合戦では大文字一揆勢に加わり信濃守小笠原長秀戦ったこのころ吉窪城築城しこれを要害城とし、小市に館を構える。更に、寛正年間新田義貞麾下窪寺氏を追い犀川越えて更級郡北部にも進出し今里内後、今井於下にも館を構える。弘治3年1557年の上野原戦い第三次川中島の戦い)では吉窪城小田切幸長葛山城城主落合氏と共に籠城するが、馬場信房らの猛攻を受け討死している。幸長の子民部少輔ははじめ武田勝頼、のち上杉景勝仕え小市住んだ子孫中には武田氏滅亡後徳川家仕え旗本となったものもいる。

※この「信濃滋野姓海野氏流(宗家)」の解説は、「小田切氏」の解説の一部です。
「信濃滋野姓海野氏流(宗家)」を含む「小田切氏」の記事については、「小田切氏」の概要を参照ください。

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