義政の後継者とは? わかりやすく解説

義政の後継者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:50 UTC 版)

足利義視」の記事における「義政の後継者」の解説

永享11年1439年)閏1月18日6代将軍足利義教三男として誕生した。母は義教正室正親町三条尹子仕えていた女房小宰相局で、庶子として扱われた。2月22日には尹子の兄である正親町三条実雅養君となった嘉吉3年1443年)に出家して天台宗浄土寺門跡となり、義尋(ぎじん)と号した寛正5年1464年11月25日実子がなかった兄・義政請われ僧侶から還俗することとなった当時義尋のほかに義政兄弟生存していたのは、義政の弟に当たり、古河公方対抗させるために還俗していた政知のみであった12月2日正式に還俗して乳人正親町三条実雅今出川屋敷移り住んだため今出川殿呼ばれた12月2日従五位下左馬頭叙任され上で義視名乗った。 翌寛正6年1465年1月5日従四位下に昇叙2月25日判始行った3月3日には幕府行事節句進上において、義視義政とその御台所日野富子と同じ扱い受けている。3月15日には日野重子の旧邸「高倉殿」を「今出川殿」とあらため移り住んでいる。7月26日に富子の同母良子正室迎えたが、これは義政と富子のすすめによるものであった11月20日元服5日後の25日参議左近衛中将補任され順調に義政の後継者として出世していった。同年11月23日義政と富子の間に甥義尚誕生し将軍世嗣とされたが、特に義視立場変化はなかった。『応仁記一巻本にはこれ以降義政・富子と義視の関係が悪化していったという記述があり、その影響受けた見解強かったが、2010年代以降研究では否定的な見方が強い。当時子供生存率低く世代に差があるため義視中継ぎとして見られていたとされている。11月27日には権中納言経ず従三位権大納言叙せられ、文正元年1466年1月6日には従二位となっている。またこの頃京都では徳政一揆が度々起こっているが、義視義政別個に大名への軍事命令出している。従う大名はほとんどなかったが、斯波氏の前当主斯波義廉家臣朝倉孝景はこれに応じている。

※この「義政の後継者」の解説は、「足利義視」の解説の一部です。
「義政の後継者」を含む「足利義視」の記事については、「足利義視」の概要を参照ください。

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