義政の後継者
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永享11年(1439年)閏1月18日、6代将軍足利義教の三男として誕生した。母は義教正室の正親町三条尹子に仕えていた女房の小宰相局で、庶子として扱われた。2月22日には尹子の兄である正親町三条実雅の養君となった。 嘉吉3年(1443年)に出家して、天台宗浄土寺の門跡となり、義尋(ぎじん)と号した。寛正5年(1464年)11月25日に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗することとなった。当時義尋のほかに義政の兄弟で生存していたのは、義政の弟に当たり、古河公方に対抗させるために還俗していた政知のみであった。12月2日に正式に還俗して、乳人正親町三条実雅の今出川の屋敷に移り住んだため今出川殿と呼ばれた。12月2日従五位下・左馬頭に叙任された上で義視を名乗った。 翌寛正6年(1465年)1月5日に従四位下に昇叙、2月25日に判始を行った。3月3日には幕府行事の節句進上において、義視は義政とその御台所日野富子と同じ扱いを受けている。3月15日には日野重子の旧邸「高倉殿」を「今出川殿」とあらためて移り住んでいる。7月26日に富子の同母妹良子を正室に迎えたが、これは義政と富子のすすめによるものであった。11月20日に元服、5日後の25日に参議と左近衛中将に補任され順調に義政の後継者として出世していった。同年の11月23日に義政と富子の間に甥義尚が誕生し、将軍世嗣とされたが、特に義視の立場に変化はなかった。『応仁記』一巻本にはこれ以降義政・富子と義視の関係が悪化していったという記述があり、その影響を受けた見解が強かったが、2010年代以降の研究では否定的な見方が強い。当時は子供の生存率も低く、世代に差があるため義視は中継ぎとして見られていたとされている。11月27日には権中納言を経ずに従三位・権大納言に叙せられ、文正元年(1466年)1月6日には従二位となっている。またこの頃京都では徳政一揆が度々起こっているが、義視は義政と別個に大名への軍事命令を出している。従う大名はほとんどなかったが、斯波氏の前当主斯波義廉の家臣朝倉孝景はこれに応じている。
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