三河一向一揆の発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 05:23 UTC 版)
三州一向宗乱記では、本證寺での発端説を第一に挙げ、次に本證寺での別説、さらに上宮寺での説を二通り挙げている。諸説あると解説している。 大久保忠教の著書『三河物語』の記述 永禄5年(1562年)に本證寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして、永禄6年(1563年)正月に一揆が起こったという。 上宮寺発端説 永禄6年(1563年)に松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したという(しかし、菅沼定顕という家臣の実在が不詳)。 東照宮御実紀巻二の記述。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。 不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権が侵害されたことに端を発して、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して菅沼氏の砦を襲撃した。真宗門徒の松平氏家臣や、吉良氏などの有力豪族や今川氏の残党なども加わり、松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れた。 本願寺教団とは仲が悪い真宗高田派の有力寺院である桑子明眼寺・菅生満性寺は家康についた。 ただし、こうした一揆の描き方には異論も出されている。平野明夫は永禄6年の家康の動向について分析したところ、上野城の酒井忠尚の挙兵が永禄6年6月(もしくはそれ以前)、寺部城の小笠原広重の挙兵が同年10月以前、東条城の吉良義昭の挙兵は同年10月下旬、一向一揆の発生が確認できるのは同年12月(もしくはそれ以前)に一揆軍が本多広孝の土井城が攻撃した後のことである。また、酒井・小笠原・吉良が一向一揆やこれを支持した家康家臣と連絡を取り合ったり、共同作戦を取ったとする形跡がない点(一向一揆が岡崎城に迫った時期にも自領に留まって岡崎へ兵を進めなかった)に注目して、酒井・吉良氏らの挙兵と一向一揆はともに家康を標的としたものであるが、あくまでも両者には関連性は無かったとしている。
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