妙源寺 (岡崎市)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 妙源寺 (岡崎市)の意味・解説 

妙源寺 (岡崎市)

(明眼寺 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 09:20 UTC 版)

妙源寺

柳堂(重要文化財)
所在地 愛知県岡崎市大和町字沓市場65
位置 北緯34度56分54.84秒 東経137度7分26.84秒 / 北緯34.9485667度 東経137.1241222度 / 34.9485667; 137.1241222座標: 北緯34度56分54.84秒 東経137度7分26.84秒 / 北緯34.9485667度 東経137.1241222度 / 34.9485667; 137.1241222
山号 桑子山
宗派 真宗高田派
本尊 阿弥陀如来
創建年 (伝)1258年正嘉2年)
文化財 柳堂、絹本著色善光寺如来絵伝 3幅、絹本著色法然上人絵伝 3幅、絹本著色親鸞上人絵伝 3幅、絹本著色光明本尊 3幅(重要文化財
法人番号 7180305001009
妙源寺
妙源寺 (愛知県)
テンプレートを表示

妙源寺(みょうげんじ)は、愛知県岡崎市大和町にある真宗高田派寺院。山号は桑子山。本尊阿弥陀如来

概要

文暦2年(1235年)、親鸞が関東より帰郷する途中、当地に立ち寄ったことが始まりとされる。付近の領主安藤薩摩守信平は親鸞を柳堂(以前は「太子堂」といった)に招き説法を聞いた。上人の教えに感化された安藤信平は武門を仏門に入り念信と改名。正嘉2年(1258年)に寺を建て、これを明眼寺(みょうげんじ)と名付けたと伝えられる。16世紀の高田派の応真と真智による相続争いに際しては、満性寺とともに真智方の中心寺院として活動したため、次第に権威は後退した。三河一向一揆1563年1564年)の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れた。これにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称した。三河地方の真宗の道場で最も古い道場と言われている。裏の墓地には安藤直次高木清秀など、多くの武士の墓がある。

慶長8年(1602年9月11日徳川家康より朱印地30石を拝領した[1]

毎年8月7日、8日に虫干しを兼ねた展観を行っている。

少年時代桑子学校(現在の岡崎市立矢作南小学校)に通った本多光太郎博士の墓が本寺にある。

重要文化財

以下の物件が国の重要文化財に指定されている[2]

柳堂は建築の様式から、1400年代前半頃に建立された堂と推定される。よって、寺に保存されている正和3年(1314年)の上葺棟札は前身の堂のものと考えられる。

指定名称 種別 指定年月日
妙源寺柳堂
附:厨子及び須弥壇一具、棟札5枚
建造物 1903年明治36年)4月15日
絹本著色善光寺如来絵伝 3幅 絵画 1918年大正07年)4月08日
絹本著色法然上人絵伝 3幅 絵画 1918年(大正07年)4月08日
絹本著色親鸞上人絵伝 3幅 絵画 1918年(大正07年)4月08日
絹本著色光明本尊 3幅 絵画 2014年平成26年)8月21日

ギャラリー

交通手段

脚注

  1. ^ 『新編 岡崎市史 近世 3』新編岡崎市史編さん委員会、1992年7月1日、117頁。 
  2. ^ 岡崎市指定文化財目録 | 岡崎市ホームページ
[脚注の使い方]

参考文献

  • 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、382-383頁。 
  • 『岡崎 史跡と文化財めぐり』岡崎市役所、2003年1月1日、131-132頁。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「妙源寺 (岡崎市)」の関連用語

妙源寺 (岡崎市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



妙源寺 (岡崎市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの妙源寺 (岡崎市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS