永正5年西三河進攻説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 13:41 UTC 版)
今川氏のこの三河進攻について今橋城攻めを永正3年とし、西三河進攻は永正5年(1508年)の出来事として区別する新行紀一等の考え方がある。この件につき、平野明夫は無年号11月11日付「伊達忠宗宛伊勢宗瑞書状」(『駿河伊達文書』)の「当方小勢」の記述が1万余という伊勢宗瑞引率の今川勢の規模と矛盾することから永正5年の西三河進攻以前にも、永正3年の今橋攻めに連続する今川氏の西三河進攻があったとする、永正3年・5年西三河二回進攻説を唱えている。なお、永正3年11月15日付「桑子妙源寺宛今川氏親制札」(『妙源寺文書』)が存在し、今橋合戦の結果として今川氏の勢力または影響が永正3年には西三河の岡崎市付近に及んだことが指摘されている。 「実隆公記」 永正五年十一月七日条に、三条西実隆が三河国での今川方敗退を聞くという記述がある。 七日、辛丑、晴、(中略)大隈来、参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之、
※この「永正5年西三河進攻説」の解説は、「今橋合戦」の解説の一部です。
「永正5年西三河進攻説」を含む「今橋合戦」の記事については、「今橋合戦」の概要を参照ください。
- 永正5年西三河進攻説のページへのリンク