永正三年の一向一揆
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加賀を統治していた一向宗(加賀一向一揆)は勢力拡大を目論み、度々越前に侵攻していた。これには中央の権力争いが深く関係していた。時の室町幕府管領・細川政元と本願寺は親密関係にあり、政元の強い要請により本願寺が反細川派である朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになったのである。 永正3年(1506年)3月、加賀一門の本泉寺住持蓮悟は越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒の檄文を発し、6月になるとその騒乱が越前に飛び火するようになった。 同年7月、加賀国・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。これを迎え討つため宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。これが永正3年の一向一揆(九頭竜川の戦い)である。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われ(無論、この数字には相当の誇張はあったと思われる)、対する朝倉軍は1万1000ほどであった。九頭竜川流域各地で、激戦が繰り広げられた。8月6日の中ノ郷の戦いを期に、一向宗側が総崩れとなり朝倉軍は勝利を収めた。
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