永正の安芸国人一揆
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大内義興が当主となっていた大内氏は、足利義稙を擁して上洛しており、永正8年(1511年)には山城国の船岡山合戦で決定的な勝利を収めた。この戦いには、毛利氏を始めとする安芸の国人たちも数多く参戦しており、安芸国は大内家の強い影響下にあった。しかし、4年に渡る遠征に従っていた安芸国人衆には大内氏に対する不満も溜まっていたほか、出雲国から勢力を伸張させる尼子氏の力も安芸に伸びつつあった。そのため、義興より一足早く帰国した毛利興元の呼びかけにより、永正9年(1512年)3月3日に国人一揆契約が結ばれた。 今回の一揆で起請文に連署したのは、毛利興元・平賀弘保・小早川弘平(竹原小早川家)・吉川元経・阿曽沼弘秀・野間興勝・天野興次・天野元貞・高橋元光の9名。全て大内方に属している国人であり、大内氏に対する敵対的な一揆では無いが、「将軍や他家からの命令には、相談してから対応を決める」「合戦時には協力する」ことなどが盛り込まれている。国人らが対等な立場を維持しつつ、互いの利益を図ろうとしている。 なお、永正の一揆にも安芸武田氏(一揆締結時は大内軍と共に京で従軍中)は参加していない他、毛利氏の居城(吉田郡山城)に近いため敵対関係にあった宍戸氏(宍戸元源)、竹原小早川家の本家にあたる沼田小早川家(小早川興平)なども加わってはいない。
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