永正期におきた出来事とは? わかりやすく解説

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永正期におきた出来事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 06:42 UTC 版)

永正」の記事における「永正期におきた出来事」の解説

元年1504年9月27日11月3日) - 立河原の戦い扇谷上杉朝良山内上杉顕定勝利2年1505年菅沼定則により、三河設楽郡野田城築かれる牧野古白により、三河渥美郡北端今橋城築かれるこれを機に牧野氏戸田氏抗争激化今橋城係争の地となる。 3年1506年古河公方足利政氏と息子の高基が家督巡って対立し佐野氏白河結城氏小山成長佐竹義舜岩城由隆などが政氏を支持し宇都宮成綱結城政朝小田政治などが高基を支持し関東各地戦闘続発した。(永正の乱)っっjmk 北条早雲相模にて検地実施11月 - 今橋城陥落城主牧野古白入道敗死4年1507年6月23日8月1日) - 永正の錯乱管領 細川政元自邸内にて殺害されるこれを機に、政元の養子(澄之・澄元・高国)による家督争い加え大内義興味方につけた足利義尹将軍復職活動盛んになる8月1日9月7日) - 細川澄元養父仇討ちという形で、三好之長連合して同じ養子細川澄之敗死させ細川京兆家家督を奪う。 8月7日9月13日) - 越後守護代長尾為景上杉定実擁立して守護上杉房能急襲関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡図った房能を天水越で自害追い込む永正の乱)。 大内義興義尹仲介により少弐資元和睦5年1508年3月17日4月17日) - 細川高国、澄元に対抗すべく足利義尹大内義興連合との合流目論み、京都出奔翌月足利義澄将軍・澄元派は大内上洛軍との対峙を危ぶみ、近江甲賀郡退避7月1日7月28日)- 京都帰還果たした足利義尹将軍職再任さる。並びに高国管領に、大内義興管領代任じられる。のちに義尹義稙改名高国も澄元から剥奪した細川京兆家家督継承認められた。 三河設楽郡長篠城築かれる6年1509年宇都宮成綱片角原の戦い蘆名氏勝利し塩原まで進出する6月17日7月4日) - 如意ヶ嶽の戦い高国大内義興連合軍、澄元軍を撃退7年1510年8月8日9月11日) - 摂津河内大地震四天王寺石鳥居藤井寺大破8月27日9月30日) - 遠江津波浜名湖が海とつながり今切生じた記録あり。 8年1511年8月14日9月6日) - 足利義澄将軍復職叶わぬまま病死8月24日9月16日) - 船岡山の戦い。澄元派の一員である細川政賢京都進攻恐れて丹波逃れた将軍 足利義稙が、大内義興らの援助により山城の船岡山布陣した政賢を破って入京。澄元は阿波退散する9年1512年日本初梅毒罹患者出現古河公方家の内紛で婿の高基を支持する宇都宮成綱と政氏を支持する重臣芳賀高勝対立し、成綱は高勝の謀略によって隠居させられた後、分裂した家中統制するために、高勝を謀殺し、芳賀氏側の重臣城館一斉に攻撃する宇都宮錯乱よばれる大きな内紛へと発展し、成綱が2年かけて内紛鎮圧家臣団再構成し、家中掌握する8月4日9月3日) - 阿波大津波宍喰浦民家多く流される10月 - 北条早雲により、相模鎌倉郡玉縄城築かれる12月 - 因幡守護山名豊重が、弟の山名豊頼によって布勢天神山城にて殺害される。(申ノ歳崩れ10年1513年5月21日6月30日) - 甲斐国河内領主穴山信懸実子清五郎により暗殺される11年1514年8月23日 - 宇都宮錯乱疲弊した下野宇都宮氏狙い佐竹義舜岩城由隆上下那須氏の2連合軍侵攻してくる高林の戦いで、宇都宮忠綱宇都宮成綱結城政朝らの援軍とともに撃退する。この勝利が政氏方に大きな影響与え下野宇都宮氏躍進にも影響する13年1516年宇都宮成綱佐竹義舜率い佐竹氏大軍小川縄釣の合戦勝利し佐竹氏大打撃与える。 15年1518年8月2日9月6日) - 幕府管領代大内義興本国帰還する16年1519年細川澄元高国打倒のため阿波再起三好之長中核とする軍勢摂津進駐17年1520年2月 - 細川高国仇敵の澄元軍に敗れて近江坂本退去3月7日3月25日) - 熊野大地震那智熊野堂舎破損し民家津波流失5月 - 朝倉氏土岐氏六角氏などの支援得た高国軍、反撃京都再攻(等持院の戦い)。澄元は敗れて摂津撤退三好之長自害6月10日6月24日) - 細川澄元生国阿波勝端城にて死去。 これにより細川氏管領争い一時沈静化する。 18年1521年2月12日 高野山大火寺院より出火大塔金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し全山壊滅状態となる。 3月7日4月13日) - 細川高国との確執深めた足利義稙京都から出奔3月22日4月28日) - 後柏原天皇即位式典、即位21年経てようやく挙行される。 7月6日8月8日) - 足利義澄遺児備前守護代浦上村宗庇護にあった足利王丸高国迎えられ入洛を果たす。

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