永正の錯乱と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:20 UTC 版)
詳細は「永正の錯乱」を参照 ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州に行って廻国修行したいと言い出す。この際には家臣の三好之長らの諫言によって断念する。永正4年(1507年)、武田元信救援のために一色義有を攻めている最中、帰京を命じる勅旨がありそれを受けて5月29日に帰京する。そして6月23日、澄之派の内衆の香西元長、薬師寺長忠、警護役の竹田孫七によって、湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺された(永正の錯乱)。享年42。 半将軍と呼ばれるほどに力を持った政元が死亡すると、京兆家は家督をめぐる内紛を重ねて政権体制、領国、家臣団ともに急速に力を失っていくことになる。政元暗殺後の後継者について、まず細川家の血を引かない澄之の排除に関しては一族で一致をみることができたが、澄之敗死後の澄元(後にはその子の晴元)・高国両派の対立は、幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで、20年以上の長きに渡り細川家を二分し畿内に争乱をもたらすものとなった(両細川の乱)。 また、政元をもって京兆家嫡流である細川頼元の血筋は絶え、頼元の弟である細川満之・細川詮春の子孫が京兆家の家督の地位を争うこととなる。
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