古河公方家の内紛
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「永正の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「古河公方家の内紛」の解説
戦国時代初期の東国は非常に不安定な状況であり、各地で戦闘が勃発していた(永正の乱)。 その戦火は次第に北関東へと広まった。永正3年(1506年)、古河公方足利政氏と嫡子の足利高基両名の政治抗争が起こる。この対立によって足利高基は下野国宇都宮へと逃れ、義父の宇都宮成綱に庇護される。これを契機に宇都宮成綱は古河公方家の内紛に介入する。高基を古河公方に擁立し、勢力の拡大を狙ったものであった。
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古河公方家の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 00:27 UTC 版)
古河公方足利政氏と嫡男の高氏(後の高基)が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では顕定の調停で和解したが、永正7年の顕定敗死後の山内上杉家の後継ぎを巡り、再び対立。政氏に岩城常隆・由隆父子・佐竹義舜・小山成長が、高基に宇都宮成綱・忠綱父子・結城政朝が加わり、関東各地で戦闘が続発した。さらに政氏の次男・義明が下総で小弓公方として独立してしまう。 この内紛は下野宇都宮氏の内紛(永正の内訌 (下野宇都宮氏))とも密接に絡んでおり、高基の舅にあたる宇都宮成綱による古河公方擁立の思惑もあった。結果、高基は成綱に擁立される形で第3代古河公方へ就任した。また、高基派の勢力は結城氏、上那須氏、小田氏と宇都宮成綱との間で婚姻同盟を結んでいる勢力が目立つ。高基自身も成綱の娘瑞雲院が正室である。 永正15年、高基が政氏を出家させ、政氏が武蔵国久喜の館に隠居することで収束したが、これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。
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