古河公方家への後北条氏の侵略とは? わかりやすく解説

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古河公方家への後北条氏の侵略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/14 07:25 UTC 版)

簗田晴助」の記事における「古河公方家への後北条氏の侵略」の解説

大永4年1524年)、簗田高助の子として誕生4代古河公方義兄にあたる足利晴氏から偏諱を受け、晴助を名乗る古河公方家筆頭重臣として仕えたが、晴助の代には後北条氏勢力北関東に及び、古河公方その影響にあった天文15年1546年)、主君である足利晴氏関東管領上杉憲政と共に北条氏康攻めたものの、河越城の戦い河越夜戦)で大敗する以後北条氏による古河公方への政治介入強まり天文21年1552年)には晴助の姉が生んだ晴氏の嫡男足利藤氏廃嫡となり、氏康の妹が生んだ末子・義氏が5代古河公方となった天文23年1554年)、晴氏が氏康に対して叛旗翻した際にはこれを諌め北条軍古河城古河御所)を攻めた際には古河公方家安泰考えてこれに参加するが、案に相違して、晴氏は相模国送られ幽閉され、晴助も公方奏者解任された。 続いて氏康が目を付けたのは、晴助の居城関宿城である。関宿利根川水上交通要地で、「舟役」と呼ばれる通行税収入確保出来る事から経済的に発展しており、北関東への連絡口でもあった。北条氏にとってここを押さえることは北関東制圧への一大拠点獲得することを意味していた。永禄元年1558年)、氏康の保護にあった足利義氏元服の儀終えて小田原城から帰国する事が決まり、氏康は晴助に対して対立勢力から古河城への圧力理由に、義氏の古河城と晴助の関宿城居城交換提案した。氏康からの軍事的圧力屈した晴助は一旦はこれを受け入れた

※この「古河公方家への後北条氏の侵略」の解説は、「簗田晴助」の解説の一部です。
「古河公方家への後北条氏の侵略」を含む「簗田晴助」の記事については、「簗田晴助」の概要を参照ください。

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