古河商事の破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:10 UTC 版)
第一次世界大戦期の軍事特需の中で、古河商事は従来の取扱品を拡大し、朝鮮・台湾はもとより欧米まで販売網を展開していたが、1920年(大正9年)の反動恐慌に見舞われ、商品価格の下落により大きな損害を被った。その上、大連出張所での満州特産品(大豆・豆粕・粟・高粱など)に絡む投機的な取引により多大な損失を被り、古河商事のみならず、古河銀行、ひいては古河財閥全体を大きく揺るがすことになった(いわゆる大連事件)。日本電線、日本電線製造(のち大日電線)の古河財閥からの離脱もその一例である。 また、この大連事件で、古河の神戸船舶事務所が大幅な縮小を迫られたことは、後の古河財閥に大きな影響を与えた。というのは、第一次世界大戦後の海運ブームに際し、古河合名会社が山下汽船から譲り受けた3000トンの貨物船2隻、アメリカから輸入した8000トンの新造貨物船、更に新造船3825トン貨物船を合わせた社船隻と、そのほか傭船十数隻を擁し、主に古河関係の輸出入品を取り扱い、帰り荷には他社の貨物も積載して、アジア地域のみでなくスエズ・欧米の航路においても活躍していたが、大連事件と不況の煽りを受けて社船を転売、事務所を縮小した。 古河商事の蹉跌がなければ、古河財閥は鉱業・製造業・流通業(商社・海運)・金融業の4分野の全てに展開した総合財閥になれたものと考えられる。古河商事そのものは、1921年(大正10年)にわずか4年間の経営活動の後、古河鉱業(現・古河機械金属)に吸収合併され消滅した。
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