富士電機製造(現・富士電機)の設立
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「古河財閥」の記事における「富士電機製造(現・富士電機)の設立」の解説
1919年(大正8年)市兵衛の時代からの付き合いであるドイツのシーメンスと協力し、電気機械器具の製造事業への進出計画が具体化したのは、第一次世界大戦後にドイツと日本の双方で始まった。 提携交渉は順調に始まったが、古河財閥側では古河商事の破綻と日本における恐慌の深刻化があり、シーメンス側もインフレーション克服のための対外投資の禁止策などの制約が生じ、交渉は一時、停滞した。その後、古河合名会社(現・古河機械金属)にかわり古河電気工業がシーメンスとの交渉当事者となり、両社の提携に対する熱意が高まる中で、1923年(大正12年)に富士電機製造(現・富士電機)が設立された。富士電機製造の「富士」とは、古河の頭文字「ふ」とシーメンス(Siemensのドイツ語読みはジーメンス)の頭文字「じ」に因んだものである。 新会社の業務開始日の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生したが、幸い東京の本社事務所は損傷なく、事業は東京シーメンス社から引き継がれた在庫品と受注残でつないだ。しかし、川崎工場の建設は少し遅れ、ようやく1925年(大正14年)からシーメンスの技術指導を得て品質の安定した製品を市場に供給し始めた。 古河電工は、富士電機製造の設立の前からと横浜電線製造所内に電機製作所を設け電話機の製造を行なっていた。富士電機製造は重電および弱電を持つ総合電機会社となった。弱電部門(電話機部門)は、1935年(昭和10年)に富士通信機製造(現・富士通)の設立により同社へ移管されることになった(後述)。 その後、満州事変(1931年(昭和6年))から日中戦争(1937年(昭和12年))までの6年間の日本経済は、軍備拡大による軍需品の急速な需要の拡大があり、富士電機製造は急速な規模拡大と業績の向上が続き、事業の発展への大きな契機となった。第二次世界大戦中、シーメンスとの提携関係は途切れたが、戦後の1952年(昭和27年)に技術提携を復活させ友好関係を維持しつつ、家電部門からは撤退し、重電機器を中心に経営を発展させた。
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