富士門流とは? わかりやすく解説

富士門流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 13:17 UTC 版)

富士門流(ふじもんりゅう)は、宗祖日蓮の高弟六老僧の一人、日興の法脈を継承する門流のこと[1]日興門流とも呼ばれる[1][2]


注釈

  1. ^ ただし、これは、現在の富士門流全寺院が種脱勝劣を採用している、ということではない。例えば、(榎木境道 2007, p. 518)には、北山本門寺第47世貫主に立正大学教授片山日幹が就任して以降同寺の化儀・化法は富士門流のものとは異なる(要旨)、とあり、各寺院が現在どのような教判を主張しているかは、(宮崎英修 1978, p. 204)や(日蓮正宗宗務院 1999, p. 252)にある日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)を除き、不透明である。
  2. ^ (日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651)には、石河能忠、とある。
  3. ^ 妙蓮寺日眼としつつも、「書誌学的研究の必要があるかも知れない」としている[25]
  4. ^ (宮崎英修 1980, p. 652)では、妙蓮寺日眼ではなく、日有と同時代の西山本門寺8世日眼としている。
  5. ^ (ここでは)富士大石寺のこと。
  6. ^ (ここでは)日隆門流のこと。
  7. ^ ここでの「一部」とは、「一部分」ではなく、ひとまとまり(一冊)の意
  8. ^ 出典には、「天明六(一七八五)年」とあり、和暦に従った。
  9. ^ 興門派・妙満寺派八品派本成寺派本隆寺派
  10. ^ (金岡秀友 1979, p. 205)(斎藤昭俊 1988, p. 441)には、富士大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したのは1899年(明治32年)、日蓮正宗と改称したのは大正元年、とそれぞれある。
  11. ^ 1939年(昭和14年)4月8日法律第77号
  12. ^ (影山堯雄 1979, p. 附録18)には、京都要法寺が日蓮本宗と称したのは1948(昭和23年)、(金岡秀友 1979, p. 203)には、京都要法寺が日蓮宗より独立して日蓮本宗と称したのは1952年(昭和27年)、とそれぞれある。

出典

  1. ^ a b 宮崎英修 1978, p. 220.
  2. ^ a b c 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651a.
  3. ^ 有賀要延 1975, p. 184.
  4. ^ 宮崎英修 1978, p. 204a-ただし、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。
  5. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 252-ただし、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が勝劣派であることのみ。
  6. ^ 宮崎英修 1978, p. 204b-ただし、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。
  7. ^ 金岡秀友 1979, p. 205a-ただし、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。
  8. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, pp. 97–98-ただし、日蓮正宗(即ち、富士大石寺、下条妙蓮寺)が日蓮本仏論を主張していることのみ。
  9. ^ 宮崎英修 1978巻末表
  10. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 691-ただし、富士五山に含まれない3か寺の宗派は除く。
  11. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 183.
  12. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185a.
  13. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, pp. 463, 651-ただし、北山本門寺に談所を開いたこと(P.463)、1298年(永仁6年)に地頭石河能忠の外護の下重須に本門寺を創建しここに談所を開き子弟を育成したこと(p.651)のみ。
  14. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 185b-ただし、重須に談所を設け35年にわたって住み子弟を育成したことのみ。
  15. ^ 榎木境道 2007, pp. 52, 54–56-ただし、P.52は本六人に、PP.54-56は新六人に、それぞれ関することのみ。
  16. ^ 榎木境道 2007, p. 56.
  17. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 187, 189-ただし、同書が記された日付を除く。
  18. ^ 日興他 1983, p. 134-ただし、同書が記された月日のみ(年は除く)。外部リンクでは、コマ番号84。
  19. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 2006, pp. 48–59.
  20. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 651b-本六人以降の記述。ただし、出典のある記述は除く。
  21. ^ 執行海秀 1952, pp. 136–137-ただし、出典のある記述を除いた、本節の始まりよりここまでのことのみ。
  22. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 195–197-ただし、佐渡への布教・天奏に関することを除く。
  23. ^ 堀慈琳 1922, pp. 61–63-ただし、一つ前の文も含め、布教・天奏・日蓮本仏論・中興の祖に関することのみ。外部リンクでは、コマ番号35-36
  24. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 121–123.
  25. ^ 執行海秀 1952, p. 51-ただし、康熙字典体は改めた。
  26. ^ 執行海秀 1952, pp. 50–51.
  27. ^ 執行海秀 1952, p. 137b-ただし、康熙字典体歴史的仮名遣いは改めた。
  28. ^ 執行海秀 1952, p. 138-ただし、康熙字典体歴史的仮名遣いは改めた。
  29. ^ 執行海秀 1952, pp. 139–140.
  30. ^ 執行海秀 1952, pp. 141–142, 148.
  31. ^ a b 執行海秀 1952, p. 136.
  32. ^ 執行海秀 1952, p. 137a.
  33. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 198–199-ただし、上行寺・住本寺合併よりここまでのことのみ。
  34. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 219,236,253-ただし、P.219,P.236は仏像造立に、P.253は法華経一部読誦に、それぞれ関することのみ。
  35. ^ 執行海秀 1952, p. 146.
  36. ^ 執行海秀 1952, p. 147.
  37. ^ 井上博文 1981, p. 119.
  38. ^ 執行海秀 1952, p. 267.
  39. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, pp. 205–206.
  40. ^ 金岡秀友 1979, p. 205c-ただし、日寛教学確立のきっかけと結果に関することのみ。
  41. ^ 執行海秀 1952, p. 276.
  42. ^ 日蓮正宗宗務院 1999, p. 287.
  43. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 206.
  44. ^ 榎木境道 2007, pp. 405, 440-京都要法寺はp.405、それ以外はp.440
  45. ^ 榎木境道 2007, pp. 450–451.
  46. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 818.
  47. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 230.
  48. ^ 榎木境道 2007, pp. 452–453-明治7年一致・勝劣に別れたこと以降の記述。なお、本書p.453には、本門宗への改称が許された1889年(明治32年)時点での興門派は「大石寺を除く」ともある。
  49. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 458-ただし、富士門流が1876年(明治9年)に独立して日蓮宗興門派と称したこと、1899年(明治32年)に本門宗と改称したことのみ。
  50. ^ 榎木境道 2007, pp. 495–496.
  51. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 224.
  52. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 117-ただし、1900年(明治33年)に、日蓮宗富士派が独立発表式を挙行したことのみ。
  53. ^ 金岡秀友 1979, p. 205b-ただし、富士大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。
  54. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 441-ただし、富士大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したことのみ。
  55. ^ 榎木境道 2007, p. 510.
  56. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 231.
  57. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 191.
  58. ^ 木村勝行 1995, pp. 61–62-ただし、1872年(明治5年)に不受不施派を除く日蓮系教団一致・勝劣両派が合同したこと、1874年(明治7年)に日蓮宗一致派・日蓮宗勝劣派の二派になったこと、1876年(明治9年)に勝劣派が八品派・興門派・妙満寺派・本成寺派・本隆寺派の5派になったこと、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に富士大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。
  59. ^ 本間裕史 1995, p. 63-ただし、1899年(明治32年)に興門派が本門宗に改称したこと、1900年(明治33年)に富士大石寺が本門宗より独立して日蓮宗富士派と称したこと、1912年(明治45年)に日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称したことのみ。
  60. ^ 近江幸正 1995, pp. 60–61.
  61. ^ 金岡秀友 1979, p. 203.
  62. ^ 斎藤昭俊 1988, p. 427.
  63. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, pp. 388, 737.
  64. ^ 榎木境道 2007, pp. 515–516.
  65. ^ a b 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 233.
  66. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 234-ただし、康熙字典体踊り字は改めた。
  67. ^ 本間裕史 1995, pp. 63–64-ただし、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したこと下条妙蓮寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、1957年(昭和32年)に西山本門寺が単立になったこと保田妙本寺が日蓮宗より日蓮正宗へ帰属したこと、論文執筆時点で北山本門寺と小泉久遠寺が日蓮宗に包括されていること富士大石寺と下条妙蓮寺が日蓮正宗に包括されていること西山本門寺が単立であること、同時点で日蓮宗に所属する旧本門宗末寺数が北山本門寺末36か寺小泉久遠寺末4か寺柳瀬実成寺末4か寺下条妙蓮寺末1か寺保田妙本寺末9か寺京都要法寺末34か寺西山本門寺末12か寺であることのみ
  68. ^ 佐藤博信 2013, p. 34-ただし、1995年5月に保田妙本寺が日蓮正宗から離脱したことのみ。
  69. ^ 日蓮宗現代宗教研究所 1981, p. 449-但し、1950年(昭和25年)に京都要法寺が単立となり日蓮本宗と称したことのみ。


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富士門流

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妙典寺 (豊島区)」の記事における「富士門流」の解説

当寺は富士門流の法統であり、現在は日蓮宗興統法縁会属している。開山日観下条妙蓮寺16住職だったことによる明治以降本門宗属した1941年昭和16年)の旧日蓮宗一致派)・顕本法華宗日什門流勝劣派)との三派合同で、新日蓮宗属することになった戦後下条妙蓮寺とその旧末寺大半日蓮正宗合流したが、当寺日蓮宗残留下条妙蓮寺旧末寺唯一の日蓮宗興統法縁会寺院となっている。

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