富士銀行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:29 UTC 版)
就職の際、当時は金融機関が最も早くから就職活動を受け付けており、それならば銀行を受けようと思い、三菱銀行と富士銀行のどちらがよいか先輩に相談した所、「何の係累もない、田舎者は(三菱銀では)だめだ。」のアドバイスを入れ、大衆性があるとされていた富士銀に入行した。同行時代は一時体調を崩した時期もあったが、総合職、一般職の新人事制度の立案、他行差別化を図るための商品企画、広報戦略等を手がけたほか、従業員組合の執行委員長も歴任。さらに全国銀行協会一般委員長も務め、富士銀のエースとして活躍した。町田と同期である他行企画担当役員は、その後全員頭取に昇格している。これに関して町田は多くを語らないが、「私は、ずっと、裏方仕事に徹していました。」と専門誌の取材において述べている。 総合企画部長時代、住友銀行との融資や預金量首位をかけ、激烈な「FS戦争」を展開していた富士の拡大路線修正を図ろうと根回しを始めるが、バブル崩壊が忍び寄る中の遅すぎた修正にもかかわらず、役員陣から猛反発を食らう。最終的には当時の端田泰三頭取を説得し、「先進のベストバンク」をスローガンに掲げた量から質への経営方針の転換に漕ぎつける。その一方で、再編に出遅れ、劣勢を強いられていた富士の浮上策として合併戦略の緊急性を掲げ、書面に自身の見解をしたため役員へ提起する。さらに筆頭常務在任時、営業基盤の拡充も可能である上に、信託部門を併営する大和銀行(現:りそな銀行)との合併を提言する。それに対し頭取も積極的に動き、会長も支持してくれたが、副頭取が先方の副頭取は大学時代のゼミの親友として提言を引き取った。しかし合併へ向け進捗することは無く沙汰やみとなった。その後、橋本徹頭取から荘内銀行入りを打診される。その申し出を鬱屈した思いや喪失感を抱きつつも応諾した。
※この「富士銀行時代」の解説は、「町田睿」の解説の一部です。
「富士銀行時代」を含む「町田睿」の記事については、「町田睿」の概要を参照ください。
- 富士銀行時代のページへのリンク