富士野往来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/05 15:35 UTC 版)
『富士野往来』(ふじのおうらい)は、富士の巻狩り・曽我兄弟の仇討ちを題材とした往来物(教科書)の一種。
概要
表題の「富士野」とは、富士の巻狩りが催された駿河国の地名(現在の静岡県富士宮市)である。『富士野往来』は富士の巻狩り・曽我兄弟の仇討ちを消息文等に仮託して叙述した、往来物の一種である。作者は不明[1][2][3]。
初等教育の教科書として用いられ、例えば文化13年(1816年)の永壽堂西村屋与八の目録[注釈 1]には以下のようにある。
「富士のさかり」は富士の巻狩りのことであり、また同書は「幼学児童の手本」と紹介されている。
このように特色として歴史上の事象が題材となっている点が挙げられ[4][5][6]、また往復書簡(手紙文)以外の形式を含めた往来物の先駆けであることが指摘される[7][2]。特に第九状「曽我兄弟仇討ちの状況並にその成敗を報ずる状」は、1つの文学作品として評価するものもある[8][9]。
文明16年(1484年)『温故知新書』に「富士往来」とあり[10][11][注釈 2]、また天文17年(1548年)『運歩色葉集』との近似性が指摘され、同書が『富士野往来』の内容を引くとする見解もある[12]。他『節用集』諸本に「富士往来」「富士野往来」等と見える[13][14][注釈 3]。
成立
李氏朝鮮の『経国大典』(1471年)に日本の教科書として「…庭訓往来 (中略) 富士」と見える[13][15]。この「富士」を『富士野往来』に比定し、伝来までの時差等を考慮して、成立を室町時代初期と想定するものがある[16]。また『曽我物語』成立以後とするものや[17]、真名本『曽我物語』成立以後でその文体や経国大典の事例から室町時代初期とするものもある[18]。このように、室町時代初期(南北朝時代)の成立を想定する論が多い[19][20]。
現存する最古の写本は文明18年(1486年)のものである[21][22][2]。以後、歴史の中で断続的に出版され続けた[23]。曽我兄弟が仇討ちを成功せさた後の描写として、以下のようにある。
然ルニ今、駿河ノ国富士ノ南東宮ノ原、藺手之屋形二於テ、會稽之恥辱ヲ雪、倚會哉々々々ト。 — 『富士野往来』(大永3年本)[24]
このように曽我兄弟の仇討ちの場所を「藺手(いで)の屋形」としており、これは『曽我物語』と一致している。一方『曽我物語』が「伊出」「井出」「井手」[注釈 4]とするのに対し、「藺手」という表記は他に『運歩色葉集』にのみ確認される珍しいものであるため、特殊な成立背景が想定されている[25]。
構成
最古の写本である文明18年本がそうであったように、元々は全五状であった(古態本)[26][27][28]。以後次第に書状が追加され、近世を通しては全九状で落ち着いている[27]。全九状の内容と古態本との対応を以下に示す[29][30]。
内容 | 古態本との対応 | |
---|---|---|
第一状 | 廻文状 卯月十一日附 | 古態本第一状 |
第二状 | 副文状 卯月十二日附 | 古態本第二状 |
第三状 | 着到状 五月十三日附 | 古態本第三状の一部 |
第四状 | 配分状 五月日附 | |
第五状 | 巻狩りの規模・実況を報ずる状 五月日附 | 古態本第三状の一部 |
第六状 | 小次郎・禅師房召捕りの執達令状 五月晦日附 | |
第七状 | 小次郎等逮捕不能の陳情状 五月晦日附 | |
第八状 | 曽我兄弟の狼藉についての問合状 五月廿八日附 | 古態本第四状 |
第九状 | 曽我兄弟仇討の状況並にその成敗を報ずる状 五月廿八日附 | 古態本第五状 |
特色
『富士野往来』には、曽我兄弟の武勇を讃える姿勢が確認される。例えば以下のようにある。
このように並み居る中国の武将も曽我祐成・曽我時致兄弟には及ばないとし、「武者のきわめ」と称賛している[32][9]。
また『曽我物語』と類似する箇所の存在が指摘される[33]。以下は『富士野往来』である。
其ノ日ノ装束ハ、秋野ノ摺盡シ、挽柿為ル直垂ニ大斑ノ行縢下豊ラ(ン)ニ帯キ、鶴ノ本白ノ箆矢負ヒ、 — 『富士野往来』(大永3年本)[34]
以下は真名本『曽我物語』である。
その日の装束には、秋の野の摺尽しに間々に引柿したる直垂に、大斑の行縢の豊かに広げなるに、狩矢の料に借染に作がせたる鶴の本白の九つ差いたる矢を負いつつ、 — 真名本『曽我物語』巻第一[35]
以下は仮名本『曽我物語』である。
秋の野の摺り尽くしたる間々、柿の直垂に、大斑の行縢裾たぶやかにはきなし、鶴の本白にて矧ぎたる、白の拵へたるの矢、筈高に負いなし、 — 仮名本『曽我物語』(太山寺本巻第一)[36]
このように『富士野往来』と『曽我物語』とで対応する箇所が認められ、それは真名本・仮名本共に認められると指摘される[37]。
脚注
注釈
出典
- ^ 石川 1970, p. 208.
- ^ a b c 小泉 1996, p. 472.
- ^ 村上 2006, p. 111.
- ^ 川瀬 1971, p. 1418-1421.
- ^ 小泉 1996, p. 471.
- ^ 村上 2006, p. 107.
- ^ 石川 1970, p. 213.
- ^ 石川 1970, p. 223.
- ^ a b 村上 2006, p. 118.
- ^ 石川 1970, p. 210.
- ^ 遠藤 1986, p. 472-473.
- ^ 遠藤 1986, p. 478.
- ^ a b 石川 1970, p. 209.
- ^ 遠藤 1986, p. 472.
- ^ 遠藤 1986, p. 391.
- ^ 平泉 1926, p. 284.
- ^ 高橋 1943, p. 389.
- ^ 川瀬 1971, p. 1417-1418.
- ^ 石川 1970, p. 208-209.
- ^ 村上 2006, p. 119.
- ^ 石川 1970, p. 210-211.
- ^ 遠藤 1986, p. 392.
- ^ 遠藤 1986, p. 392-394.
- ^ 石川 1970, p. 542.
- ^ 村上 2006, p. 117-118.
- ^ 石川 1970, p. 213-214.
- ^ a b 遠藤 1986, p. 409.
- ^ 村上 2006, p. 108.
- ^ 石川 1970, p. 216-217.
- ^ 村上 2006, p. 110.
- ^ 石川 1970, p. 547.
- ^ 石川 1970, p. 224-225.
- ^ 川瀬 1971, p. 1416-1417.
- ^ 石川 1970, p. 545.
- ^ 東洋文庫 1987, p. 39.
- ^ 村上 1999, p. 49.
- ^ 村上 2006, p. 116-118.
参考文献
- 平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』至文堂、1926年。
- 高橋俊乗『近世学校教育の源流』永沢金港堂、1943年。
- 石川謙・石川松太郎『日本教科書大系 往来編第4巻 (古往来4)』講談社、1970年。
- 川瀬一馬『日本書誌学之研究』講談社、1971年。
- 遠藤和夫「『富士野往来』小考」『国語史学の為に 第1部 往来物』1986年、341-393頁、ISBN 978-4-305-10198-3。
- 青木晃ほか『真名本曽我物語1』平凡社〈東洋文庫 468〉、1987年。 ISBN 978-4-256-28468-1。
- 小泉吉永『稀覯往来物集成 第3巻』大空社、1996年。
- 村上美登志『太山寺本曽我物語』和泉書院〈和泉古典叢書10〉、1999年。 ISBN 978-4-8708-8966-8。
- 村上美登志『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』和泉書院、2006年。 ISBN 978-4-7576-0347-9。
富士野往来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:49 UTC 版)
富士野における巻狩りの事象を手紙で他へ通信する形式を含み一形態として史料化したものに『富士野往来』がある。題材には曾我兄弟の仇討ちも含まれる。往来物の祖とも称され、多くで引用され教育の題材(教科書)とされてきた。また海外にも知られていたようであり、李氏朝鮮の『経国大典』にも日本の教育本として紹介されている。成立年は不明であるが、南北朝時代には成立していたとされる。 諸本の書写は文明18年(1486年)から永禄7年(1564年)に集中しており、また現存全諸本の題名は『富士野往来』または『御狩富士野往来』である。富士野往来では曽我兄弟の仇討ちが「藺手(井出)の屋形」で行われた形態をとり、場所については「駿河国富士の南、東宮の原、藺手の屋形」(第9状)とある。また上述のように『運歩色葉集』にも富士野の巻狩の記述が確認されるが、これは富士野往来から採集しているという指摘がある。
※この「富士野往来」の解説は、「富士野」の解説の一部です。
「富士野往来」を含む「富士野」の記事については、「富士野」の概要を参照ください。
- 富士野往来のページへのリンク