富士野到着後とは? わかりやすく解説

富士野(伊出の屋形)到着後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:54 UTC 版)

曾我兄弟の仇討ち」の記事における「富士野(伊出の屋形到着後」の解説

次の日は伊出の屋形に着かせ給ふ。(巻七)既に御狩庭始まりければ、各々互ひに目を懸けて、敵の助経に告げ知らす中略次の日よりは三日巻狩とぞ聞こえる(巻第八頼朝一行曽我兄弟は伊出の屋形到着したこの間兄弟は祐経の動向目を光らせ続けていた。3日連続巻狩が始まると、二十番の狩りが行われた。一番は相模国愛敬三郎本間次郎であった巻狩第三箇日に当りける日は、終日に躵へども少しの隙こそなかりけれ。(中略上の峯より大鹿大王二頭曽我人々前に出で来れり。(中略)かかる処に、上の峯より大王下りけり。いづくにて何人にや射られけん、矢二つ負ひながら、瞋り瞋て鎌倉殿御前懸りける。(中略)是をその日見物として、鎌倉殿御屋形入り給へば、曾我人々同じく屋形入りにけり(巻八) 兄弟は祐経を狙い続けるがその隙が無い。すると二頭大鹿兄弟前に出てきたが、兄弟故意にこれを射外した今度源頼朝前に走り懸けて来たが、新田四郎忠経仕留めた。これをその日見物として頼朝御屋形入り兄弟屋形入っていった。仇討ち直前兄弟は伊出の屋形で母に宛て手紙を書く。その末尾には 建久4年癸丑5月28日夜半には、駿河の国富士山の麓伊出の屋形において、慈父報恩のため命を失ひ畢るなり(巻九) とあった。五郎は母からの勘当許されたことに感謝し、また兄弟共に母の後代祈った十郎は綾の小袖千鳥直垂赤銅作り太刀・黒鞘巻の刀等を携え五郎描かれ直垂兵庫鎖太刀赤木柄短刀等を携える。そして5月28日夜半仇討ち決行された。

※この「富士野(伊出の屋形)到着後」の解説は、「曾我兄弟の仇討ち」の解説の一部です。
「富士野(伊出の屋形)到着後」を含む「曾我兄弟の仇討ち」の記事については、「曾我兄弟の仇討ち」の概要を参照ください。

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