富士鉄釜石/新日鉄釜石時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:46 UTC 版)
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1959年、富士製鐵釜石製鐵所の実業団チームである「富士鉄釜石ラグビー部」として結成。1962年、全国社会人大会に初めて出場したが、1回戦で大阪府警察に敗れた。1969年、全国社会人大会準決勝でトヨタ自工に3年連続で敗れたものの日本選手権初出場を果たした。日本選手権では綿井永寿が率いた日本体育大学に敗れた。 1970年、新日本製鐵への社名変更に伴い、チーム名も「新日鉄釜石ラグビー部」に変更。同年度にリコーと同点ながら全国社会人大会初優勝を果たし、また抽選により日本選手権出場も果たしたが、日本選手権では日比野弘が率いた早稲田大学に敗れた。 1976年、全国社会人大会決勝でトヨタ自工を破り、6年ぶり2回目の優勝を果たすと日本選手権でも大東和美が率いた早稲田大学を破り、初優勝を果たした。そして1978年から1984年まで主将の松尾雄治 を筆頭に洞口孝治、千田美智仁、森重隆、小林日出夫らの主力を擁して、全国社会人大会及び日本選手権にて当時最多の7連覇を達成した(当時中継したNHKには映像が一つも保存されていなかったが、2013年に土門正夫アナウンサーが84・85年分を、そして千田美智仁が79年から83年分を提供したため、日本選手権決勝は映像が全て揃うこととなった)。ちなみに1981年には釜石市でニュージーランドのクラブチームであるポンソンビーと国際試合が行われて、ポンソンビーが19対13で勝利した。 そして8連覇を狙った1985年は、全国社会人大会準決勝で神戸製鋼に敗れた。1986年は全国社会人大会決勝に進出したが、トヨタ自動車に敗れた。1987年は全国社会人大会予選で秋田市役所に敗れたため、全国社会人大会に出場できなかった。翌年の1988年より東日本社会人リーグに参加し、同年度には三洋電機に次ぐ2位の成績を収めた。 しかし1992年を最後に全国社会人大会への出場が途切れ、1993年から1999年まで7年連続で入れ替え戦に回るも、全て勝利して残留を果たしたが、2001年に新設された東日本社会人チャレンジリーグにて最終戦で三菱重工相模原に1点差で敗れたことで3位に終わり、東日本社会人リーグから関東社会人リーグ1部に降格した。加えて新日本製鐵のスポーツ事業運営の見直しを図る観点から2001年を最後に新日鉄釜石ラグビー部としては一旦幕を下ろした。 全国社会人大会には1961年度に初出場。以降、1992年度までの間に、近鉄、トヨタ自動車、三洋電機、神戸製鋼、リコーに次いで歴代6位タイとなる30回出場した。優勝9回(歴代2位タイ)、準優勝1回、通算86試合(歴代5位)、通算62勝(歴代4位)、7大会連続優勝(1978年度-1984年度、歴代1位タイ)という記録を残している。
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※は釜石シーウェイブス時代にも選手として在籍した選手。太字は元日本代表選手。 青山敦司 阿部佳知己 ※池村章宏 石山次郎 泉秀仁 市口順亮 伊藤正義 氏家靖男 金子敦行 川崎拓 菊地保 ※京野和也 金野年明 小林一郎 小林日出夫 小藪修 坂下功正(現・釜石シーウェイブス総監督) ※桜庭吉彦(現・釜石シーウェイブスゼネラルマネジャー) 佐々木和寿 佐々木祟 佐藤勉 佐野正文 篠原洋介(現・釜石シーウェイブススタッフ) 柴田忠敏 瀬川清 高橋善幸(現・釜石シーウェイブスシニアアドバイザー) 高橋博行 多田信行 ダニー・カレオパ 谷藤尚之 千田美智仁 永岡章 仲上太一 長山時盛 畠山剛 細川直文(佐野正文の弟) 洞口孝治 松尾雄治 松尾雄介(松尾雄治の弟) 眞野篤司 ※三浦健博(現・釜石シーウェイブスアドバイザー) 三浦達夫(新日鉄釜石ラグビー部初代主将、三浦俊也の父) 三浦智拓 南村明美 宮田浩二 宮本政志 村口和夫 森重隆 和田透
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