古河公方足利氏とは? わかりやすく解説

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古河公方足利氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 18:27 UTC 版)

竹林の戦い」の記事における「古河公方足利氏」の解説

永正3年1506年)、足利政氏嫡子である足利高基は、政氏との不和原因で、義父宇都宮成綱頼って下野国宇都宮に移座し古河公方家の内紛永正の乱)が始まった不和原因は、政氏が山内上杉氏との連携重視する一方、高基は対立する後北条氏重視したことを取り上げ見解がある。他には、高基の正室宇都宮氏から瑞雲院宇都宮成綱の娘)を迎えているが、このように正室周辺伝統的豪族求めた例はないことから、高基と宇都宮氏との特別な関係背景として考えられる永正6年1509年)、上杉顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河帰座したが、翌7年に顕定が越後戦死した直後、高基は再び古河城離れて公方家重簗田高助関宿城へ移座した同時に山内上杉氏でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛拡大してしまう。また、これらの争い永正9年1512年) に下野宇都宮氏宇都宮錯乱引き起こす遠因となってしまっている。 永正9年1512年)、憲房が武蔵鉢形城攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城逃走し、その直後に政氏も小山成長頼って小山祇園城に移座した代わりに高基が古河城入り第3古河公方地位確立した結果、「公方管領体制」は、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。のちに憲房もまた、高基の子養子迎えて関東管領後継者(憲寛)とする。

※この「古河公方足利氏」の解説は、「竹林の戦い」の解説の一部です。
「古河公方足利氏」を含む「竹林の戦い」の記事については、「竹林の戦い」の概要を参照ください。

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