野田持忠とは? わかりやすく解説

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野田持忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 10:27 UTC 版)

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野田持忠
時代 室町時代
生誕 不明
死没 不明
別名 野田右馬助[1]
主君 足利成氏
氏族 関東野田氏
氏範?
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野田 持忠(のだ もちただ)は、室町時代武将足利氏古河公方)の家臣。関東野田氏当主。下総国古河城主、のちに下野国野田城主。

略歴

関東野田氏は木戸氏と共に鎌倉府奉行衆宿老の家系[1] [2]

鎌倉公方足利持氏偏諱[3]を受け持忠を名乗る。

永享12年(1440年)、結城合戦の際に、結城方として古河城に立て籠った城主「野田右馬助」が「野田持忠」と考えられている[1] [4]。『鎌倉大草紙』・『永享記』によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らと共に城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死した[5]

永享10年(1438年)の永享の乱で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏の許で再興し、持忠もその家臣として活動を始める。宝徳3年(1451年)、持忠は「野田持保」の知行に強入部している[6] [1]。これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つであるが、室町幕府から批判されることになる[7]享徳4年(1455年)、享徳の乱のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野の野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗した[1]

享徳の乱初期には、上野国岩松持国を足利成氏に取り次いだ。康正2年(1456年)以降の動静は不明[1] [8]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 『戦国人名辞典』788頁(見出し「野田持忠」の解説・長塚孝執筆)
  2. ^ 『野田家文書』 No.6 群書類従本「殿中以下年中行事」
  3. ^ 佐藤博信「野田家文書の伝来と現状」 『野田家文書』、9-16頁。 なお本稿は、佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年、281-300頁 にも収録。
  4. ^ 籠城した「野田右馬助」の実名について、『古河志』では『鎌倉大草紙』における嘉慶元年(元中4年・1387年)の「古河住人」と同じ人物としている(『古河市史資料別巻』 227頁)が、この「古河住人」は「野田等忠」が該当する(例えば、『古河市史通史編』155 頁)。また『古河志』は実名として、『続太平記』の「野田右馬助行氏」、『関東古戦録』の「野田右馬允安重」を併記している。
  5. ^ 『古河市史通史編』156 – 162 頁(永享の乱から結城合戦へ)
  6. ^ 『野田家文書』 No.7
  7. ^ 佐藤博信(1989) 、61頁(足利成氏とその時代)
  8. ^ 『野田家文書』 No.8~19

参考文献

  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料別巻』 古河市、1973年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史通史編』 古河市、1988年
  • 古河歴史博物館編集・発行 『野田家文書』 2003年
  • 佐藤博信 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年
  • 佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年
  • 戦国人名辞典編集委員会 編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年



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