古河公方・横瀬氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 14:56 UTC 版)
南北朝時代、観応の擾乱に際して大胡氏は山上氏らと共に足利尊氏に与し、足利直義方の桃井直常、長尾景忠と笠懸野で戦って敗れたが、やがて尊氏は勢力を回復し直義を自害に追い込んだ。 その後しばらく大胡氏の動静はつかめないが、享徳の乱のさなかに古河公方足利成氏は配下の岩松持国に赤堀・大胡・深津氏を攻撃させているので、この大乱において大胡氏は上杉方に加担していたものと思われる。また、文明元年(1469年)に川越城で行われた太田資清主催の連歌会に大胡城主とみられる大胡修茂の名が見えている。 子孫の牛込氏の伝えによれば、天文10年(1541年)、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となってきて、圧迫されるようになったため、大胡氏は当地域をすてて江戸に赴き、牛込城に移ったといわれる。少なくとも永禄2年(1559年)以前には江戸へ出ており、既に後北条氏配下にあった(『大胡町誌』)。
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