宇津頼重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/17 14:13 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 右近大夫、左近大夫 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 松永長頼→足利義昭 |
氏族 | 宇津氏(土岐氏庶流) |
父母 | 父:宇津頼高 |
子 | 頼章 |
宇津 頼重(うつ よりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹波国桑田郡宇津荘の宇津城主。
略歴
宇津氏は、室町時代初期の婆娑羅大名である土岐頼遠の末裔を称し[1]、両細川の乱では細川高国に属して、細川晴元や三好長慶らと戦う一方、皇室御領である山国荘を押領していた。
天文4年(1535年)、宇津家の当主であった頼重は朝廷から再々の勅命や、三好長慶や松永久秀による命令にも従わず押領を続け、皇室の経済的困窮の主因となった。更に永年の盟友である波多野氏との軍事同盟により、内藤国貞や松永長頼とも合戦を繰り広げた。
永禄12年(1569年)4月には、足利義昭を奉じた織田信長からも山国荘の返還を命じられたが、無視した[2]。元亀4年(1573年)2月、足利義昭が織田信長との戦いの為、丹波・丹後国・摂津国の国衆を招集するとこれに応じ、御供衆に加えられている[3]。その後も頼重は織田信長と敵対しており、天正5年(1577年)には、織田家重臣の明智光秀や滝川一益と戦い、負傷している[4]。
しかし、天正7年(1579年)7月19日、明智光秀の軍勢により宇津城を攻略され、城を捨てて逃亡した[5]。朝廷による山国荘の直務支配が回復すると朝廷から明智光秀に恩賞と織田信長に御礼の勅使が遣わされた[6]。
脚注・出典
関連項目
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