狩野正信とは? わかりやすく解説

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かのう‐まさのぶ【狩野正信】

読み方:かのうまさのぶ

[1434〜1530]室町中期画家伊豆の人。狩野派の祖。師の宗湛(そうたん)の跡を継いで室町幕府御用絵師となり、水墨画中心とする漢画大和絵使い分け、その現実的平明な画風好まれて、狩野派基礎築いた


狩野正信

読み方かのう  まさのぶ

室町後期画家伊豆生。狩野派の祖。通称四郎次郎、のち大炊助改める。号は性玄。若くして画名上げ周文のあとを受けて足利将軍家御用絵師となる。漢画日本化大きな功績があった。代表作に「崖下布袋図」がある。天文19年(1550)歿、97才。

狩野正信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:54 UTC 版)

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周茂叔愛蓮図 九州国立博物館蔵 国宝
山水図(双幅のうち)九州国立博物館蔵 重要文化財

狩野 正信(かのう まさのぶ、永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日1530年8月2日)?)は、室町時代の絵師で、狩野派の祖である。

狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派であった。この狩野派の初代とされるのが、室町幕府御用絵師として仕えた狩野正信である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。長男は元信、次男は雅楽助

生涯

出自

正信の出自については、伊豆国出身である鎌倉時代に源頼朝に仕えた武士狩野宗茂の子孫で、江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今川氏の家臣・狩野出羽二郎景信を正信の父としている[1][2][3]。その中で景信は、足利義教永享4年(1432年)富士を見物した際、その命で富士図を制作、その縁で義教に仕えたとされる。後の正信と幕府要人の繋がりを説明するのに都合がよい内容だが、信憑性の高い資料に景信の名が出ていないことから、一つの伝承や逸話の域を出る物ではない。また、(1)正信やその子・元信の縁者が下野(しもつけ、現栃木県)方面に見られること、(2)栃木県足利市の長林寺に正信の初期作品である『観瀑図』が残ること、(3)前記『観瀑図』に「長尾景長公寄進」との外題があることなどから、狩野正信は下野方面の出身で、足利長尾氏と何らかの関係があったとする説もある。近年は、江戸時代の法華宗関係史料『本化別頭仏祖統紀』に上総狩野家の叡昌の孫行蓮と正信は同一人物とあることから、上総(かずさ、現千葉県)出身説が有力である。叡昌の娘理哲尼は長尾実景に嫁いでおり、長林寺は足利長尾氏の菩提寺であることから、下野説の論拠とも矛盾はない。

活躍と画風

京では幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したものと思われる。また、『尋尊大僧正記』には、「土佐弟子」と記されており土佐派との繋がりを想像させるが、大和絵を描いた遺品、または描いたとされる史料は皆無であることから、土佐家との何らかの関係を持ちつつも、正信が傍流的な立場であったことを示唆している。正信に関する最初の記録は、季瓊真蘂が筆録した『蔭凉軒日録』の寛正4年(1463年)7月相国寺雲頂院の昭堂に十六羅漢を描いたという記事である。以後20年間記録は途絶えるが、文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。明応5年(1496年)には日野富子の肖像を描いた(『実隆公記』)。

現存する作品中では、中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』(しゅうもしゅく あいれんず)が、それまでの室町水墨画と異なり全てのモチーフが平明にわかりやすく描かれており、正信自身のみならず後の狩野派の進むべき方向をも決定づけた代表作と見なされている。他に九州国立博物館蔵の『山水図』双幅、個人蔵の水墨の『山水図』、文化庁蔵の『崖下布袋図』(景徐周麟賛)などが古来著名である。大徳寺塔頭真珠庵の『竹石白鶴図』(六曲屏風1隻)も印章等はないが、古くから正信作とされている。

画風は、現存作品から見る限りでは漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法によるものが多いが、なかで『周茂叔愛蓮図』は画面上半分に余白を大きく取り、近景の柳の大木の緑が印象的な平明な画面で、他の作品とはやや異質な感がある。また、『文殊菩薩図』(群馬県立近代美術館)のような仏画の遺品や、扇面画も5点ほどあり、職業絵師として多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。

代表作

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 文化財指定 備考
周茂叔愛蓮図[4] 紙本墨画淡彩 1幅 84.5x33.0 九州国立博物館 「正信」白文鼎印 国宝 伊達家旧蔵
(崖下)布袋図 紙本淡彩 1幅 文化庁東京国立博物館保管) 「正信」白文壺形印 重要文化財 景徐周麟
観瀑図 絹本墨画淡彩 1幅 119.0x37.4 栃木・長林寺 1493年(明応2年)以前 「正信」白文鼎印 重要文化財 横川景三賛。表装外題に「長尾憲長公寄進 長林寺什宝」と記されており、山内上杉家家宰長尾憲長が寄進するために正信に描かせたと推測される。
山水図[5] 紙本墨画淡彩 双幅 69.0x横38.8(各) 九州国立博物館 「正信」白文鼎印(各幅) 重要文化財
山水図 紙本墨画淡彩 1幅 95.8x35.5 個人 「正信」白文鼎印 重要文化財
日親像 絹本著色 1幅 本法寺 (京都市) 重要文化財
竹石白鶴図屏風 紙本墨画 六曲一隻 155.0x353.0 京都・大徳寺真珠庵京都国立博物館寄託) 重要文化財 伝正信筆
釈迦三尊像 絹本著色 3幅 150.5x88.7(各) 京都・大徳寺 重要文化財
文殊菩薩像 藤岡市・仙蔵寺 「正信」印 伝正信筆。大徳寺本の右幅と類似。
文殊菩薩像 個人 「正信」印 伝正信筆。
観瀑図扇面 紙本墨画 1幅 51.9(径) 京都国立博物館 「正信」白文壺形印
芦雁図扇面 紙本墨画 1本 42.6(径) 東京国立博物館 「正信」白文壺形印
松下人物図扇面 紙本墨画 1本 47.5(径) 東京国立博物館 「正信」白文壺形印 伝正信筆。印は布袋図と同印

脚注

  1. ^ 『狩野派の巨匠たち』開館三周年記念展、1989年、39頁。
  2. ^ 豊田 武『家系』東京堂出版、1993年、293頁。
  3. ^ 『日本の美術 第13~18号』至文堂、1967年、95頁。
  4. ^ [hhttps://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100005 紙本墨画淡彩周茂叔愛蓮図 - e国宝]
  5. ^ 紙本墨画淡彩山水図 - e国宝

参考文献

展覧会図録
  • 『特別展覧会 室町時代の狩野派 ─画壇制覇への道─京都国立博物館、1996年
  • 池田茉美 上野友愛 内田洸編集 『六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信』 サントリー美術館、2017年9月16日

関連項目


狩野正信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 05:32 UTC 版)

狩野派」の記事における「狩野正信」の解説

狩野派の祖は室町幕府御用絵師として活動した狩野正信(1434? - 1530)である。彼は当時日本人としては長寿保ち通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した正信出自上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)であり、狩野宗茂狩野氏の祖・工藤茂光の子の子とみられる江戸時代作成家譜・画伝類では駿河今川氏家臣狩野出羽二郎景信という人物正信の父としている。20世紀後半以降研究の進展により、狩野家は下野国足利栃木県足利市)の足利長尾氏何らかの関係があったものと推定されており、足利市長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信比較初期の作品考えられている。正信画業として記録に残る最初事例は、応仁の乱(1467 - 1477)の直前寛正4年1463年)、30歳時に京都雲頂院(相国寺塔頭)に観音羅漢図の壁画制作したというもので(『蔭涼軒日録所載)、この時点正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信壁画描いた雲頂院の本寺である相国寺室町幕府3代将軍足利義満創建禅寺で、如拙周文雪舟らの画僧輩出した室町画壇中心的存在であり、この当時周文弟子にあたる画僧宗湛小栗宗湛1413 - 1481)が御用絵師として活動していた。狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、室町幕府8代将軍足利義政重用されていたことは諸記録から明らかである。10年わたった応仁の乱(1467 - 1477)終結数年後文明13年1481年)、室町幕府御用絵師であった宗湛死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府御用絵師任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷絵所預えどころあずかり)の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画系の狩野正信の両者画壇の二大勢となった文明14年1482年)、前将軍足利義政は、東山殿銀閣寺前身)の造営始め正信がその障壁画担当することとなった延徳2年1490年)の義政没後正信当時政治実権握っていた細川氏仕えるようになる正信このように時の権力者との結び付き深めつつ画壇での地位固め、後の狩野派隆盛基礎築いた記録によれば正信障壁画仏画含め多様な形式題材作品手掛けたことが知られるが、障壁画ことごとく失われ現存する確実な作品掛軸などの小画面限られている。その画風は、同時代人土佐光信伝統的な大和絵風とは対照的に水墨基調とし、中国宋・元の画法元にした「漢画であった正信97歳長寿保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男元信画業を継がせて引退生活送っていた模様である。

※この「狩野正信」の解説は、「狩野派」の解説の一部です。
「狩野正信」を含む「狩野派」の記事については、「狩野派」の概要を参照ください。

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