20世紀後半以降
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「アイスランドの軍事」の記事における「20世紀後半以降」の解説
第二次世界大戦後もアイスランドは軍の設立を行なわなかった。1949年には北大西洋条約機構の原加盟国となり、1951年から2006年までは、アメリカ軍を中心とするアイスランド防衛隊がケプラヴィークに駐留していた。このケプラヴィーク基地はイギリスを含む西側諸国のソビエト連邦に対する最重要拠点であり、集団安全保障体制による外国軍の駐留を受け入れていた。北大西洋にあるアイスランドは、NATOにとり大西洋の通商路を防衛する良好な拠点であり、そのために対潜哨戒機と戦闘機を中心とした部隊が配備された。冷戦終結後は、ソビエト連邦の脅威がなくなったことにより、アイスランド防衛隊の規模について、2001年よりアメリカと二国間交渉が行われた。2003年にはアメリカ空軍の戦闘機部隊の撤収が発表されたが、それは反対により延期となった。 再交渉で、アイスランド側は駐留費用の全負担を申し出るなど駐留継続を要請していたが、アメリカは受け入れなかった。2006年3月にアメリカ合衆国は戦闘機部隊をはじめとする駐留部隊の撤収を発表し、2006年9月にはケプラヴィークから撤退した。これによりケプラヴィーク基地の管理は、アメリカ軍からアイスランド外務省へ移管されている。 アイスランド防衛隊の撤収を受けて、アイスランドは2006年9月26日に警察や沿岸警備隊を含む国土警備および防衛目的機関の設立を行うことをアナウンスしている。これは2008年に防衛庁として設立された、ただし、ここでも実行部隊は組織されていない。なお、アイスランドは平和のためのパートナーシップ(PfP)にも積極的に参加しており、1997年と2000年にはホスト国となっている。また、平和維持活動にも積極的でありSFOR、KFOR、ISAFにも人員を出している。
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20世紀後半以降
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1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅などが流行した。アイシャドーやマスカラなどのアイメイクが導入されたのもこのころである。 1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。細く眉尻の上がった眉が流行した。明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。 1970年代後半から1980年代には「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころである。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。また日焼けが健康的とされた時代であり、焼いた肌が一時流行した。 1990年前後のバブル期には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売り出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。 1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになったほか、1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。 1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進み、ギャル文化のブームにより一時は「ガングロ」と言われる黒い肌のメイクや派手なつけまつげも現れたものの、前述の美白指向の定着により、ナチュラルメイク、白肌メイクが多数派になった。濃い色のチークやファンデーションも好んで使われている。
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20世紀後半以降
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リチャード・ニクソン大統領は、1970年にアメリカ海洋大気庁を創設し、C&GS をこの新しい科学機関の一部に組み込んだ。 現在、沿岸測量部は、航行に関する製品や情報を、商業活動や保安の改善のため、まら沿岸環境の保全のために提供している。その中には、海図や『United States Coast Pilot』の製作も含まれている。
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20世紀後半以降
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『日本の写真家』 全40巻中の後半30巻、岩波書店 1997-99年 飯沢耕太郎『戦後写真史ノート 写真は何を表現してきたか』 中公新書、1993年。増補、岩波現代文庫、2008年
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20世紀後半以降
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「ガリレオによるピサの斜塔実験」の記事における「20世紀後半以降」の解説
20世紀後半に入っても、多くの学者が斜塔実験について言及している。実験がなかったとする人は、実験の記録がヴィヴィアーニの著書以外に存在しないことを指摘している。例えば、科学史家の伊東俊太郎は、1985年の著書などで、ガリレオの『運動について』でも、それ以降のコレジオやレニエリの実験記録でも、ガリレオの斜塔実験について触れられていないと述べている。また、レニエリがガリレオにあてた手紙に対し、ガリレオは返事を出している。その返事自体は現在残っていないが、そのガリレオの返事に対するレニエリの返事が残っているので、そこからガリレオの手紙の内容を推測することができる。レニエリはピサの斜塔から実験したことをガリレオに知らせているので、ガリレオも、自らの実験のことを話題に出すのが当然と思われるが、ガリレオは自らが実験したはずのピサの斜塔実験について述べていない。以上のことから伊東は、「ピサ時代に斜塔において実験したという痕跡は全くないといってよい」と結論付けている。 斜塔実験があったと主張する学者としては、スティルマン・ドレイク(英語版)がいる。ドレイクは1970年代に出版したガリレオの伝記の中で、まず、この実験の結果については実験前からガリレオは知っていたのだから、これはデモンストレーションだと論じた。そして、この実験は長年忘れ去られていたが、ガリレオはレニエリの手紙を読んでこのことを思い出したのだろうと推測した。 当時ガリレオは目が不自由だったため、手紙はヴィヴィアーニに口述させていた。ドレイクの推測によれば、ガリレオはレニエリに返事を書く際、ヴィヴィアーニに、過去の自分の実験についても話した。その内容自体が手紙に書かれていたかどうかはさておき、ヴィヴィアーニはガリレオからその時聞いた話を覚えていて、後にガリレオの伝記を書く際に記した。 その裏付けとして、以下の事実を指摘している。レニエリの手紙には、異なる材質の球を落下させる実験と、同じ材質で異なる重さの球を落下させる実験の2つが書かれているが、ガリレオがピサ時代に結果を理解していたのは前者の実験であり、そして、ヴィヴィアーニが記したガリレオによるピサの斜塔実験も前者の実験であるため一致している。ヴィヴィアーニの伝記の他の箇所には疑わしい点もあるが、この件に関しては正確であるのでヴィヴィアーニを信用できると思われる。 21世紀に入っても、ピサの斜塔実験については、少なくとも1回は実験したとする学者もあるが、否定する学者も多い。
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20世紀後半以降
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19世紀後半から20世紀前半にかけての大量死の危機を免れた一部のエゾシカは、主に日高山脈や大雪山脈、阿寒の山系に生き残った。1957年には雄ジカの狩猟が解禁され、可猟区は年々拡大したものの、雌ジカの狩猟は禁止されていたため、戦後からエゾシカの個体数は回復し始めた。1978年から雌ジカの駆除が行われ、1994年には雌ジカの狩猟が解禁となったにもかかわらず、個体数の増加は続いた。とくに個体数が劇的に増加したのは1990年代にかけてである。阿寒に生き残った個体群は北部や西部へ、大雪の個体群は道央や道北へ数を増やしながら分布を拡大させた。また、日高や石狩地方などではその地域にもともと生き残っていた個体が個体数を増大させたとみられている。一方で渡島半島といった道南では2000年代になっても個体数が少ない状況が続いているが、急増する兆しも指摘されている。2010年度には北海道全域における生息数が約65万頭と推定され、戦後最多の状態となっている。 こうした一連の個体数増加の要因として、冬期にも樹冠が覆うトドマツ植林地の増加が越冬地として機能したこと、主要な餌場となる農耕地の拡大といった土地利用の変化が挙げられている。これらの背景を踏まえ、牧草地や植林地に代表される北海道でよくみられる人工的な自然環境が結果的にエゾシカを飼育している状況を生み出しているという指摘もある。絶滅危機の時代以降から現在までに、越冬地の積雪期が長期化するとエゾシカの大量死亡が生じることはあったが、近年は暖冬傾向が続いており、自然死亡率は低いと考えられている。また、エゾシカの天敵のひとつであるエゾオオカミの絶滅もエゾシカ増加に影響しているとする意見もある。一方で、道西部におけるエゾシカの分布拡大といった近年の動向については、オオカミの絶滅では説明ができないとの指摘もある。
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20世紀後半以降
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「アーネスト・シャクルトン」の記事における「20世紀後半以降」の解説
1959年にアルフレッド・ランシング著『Endurance: Shackleton's Incredible Voyage(邦題:エンデュアランス号漂流)』が出版された。これは肯定的な視点でシャクルトンを描いた最初の本である。同じくしてスコットへの態度は徐々に変わり、文学作品の中で批判的記述が増え、バルチェフスキーが「痛烈な一撃」と評した、1979年出版のローランド・ハントフォード(英語版)による伝記『Scott and Amundsen』におけるスコットの扱いで頂点に達した。このスコットの負の一面は世間に真実として受け入れられるようになり、彼を象徴していたヒロイズムは20世紀後半の意識変化の犠牲になった。数年のうちにスコットは、かつてのライバルが沈む一方で人気が急上昇したシャクルトンに、世間の尊敬面で完全に逆転された。2002年、BBCは「100人の偉大なイギリス人」を決めるアンケートを行ったが、シャクルトンの11位に対しスコットは54位であった。 2001年、マーガレット・モレル(Margaret Morrell)とステファニー・キャパレル(Stephanie Capparell)が『Shackleton's Way: Leadership Lessons from the Great Antarctic Explorer(邦題:史上最強のリーダー シャクルトン)』の中でシャクルトンを企業のリーダーのモデルとして取り上げた。同書は「シャクルトンは今日のビジネス社会の幹部と重なるところがある。彼の人間中心のリーダーシップへのアプローチは管理職にとってのガイドとなる。」と述べた。すぐに他のビジネス書の作家もこれに続き、シャクルトンを混沌から秩序をもたらす手本として紹介した。2017年には、ナンシー・コーエン(Nancy Koehn)が、シャクルトンは資金問題とナルシストという欠点にかかわらず成功する能力を伸ばした、と記している。 イギリス・エクセター大学のリーダーシップ研究所はシャクルトンに関する講座を設けた。アメリカのボストンでは、「旅が全て(The Journey is Everything)」というモットーを持つ、アウトワード・バウンド主義の「シャクルトン学校」が設立された。また、シャクルトンはアメリカ海軍で模範的リーダーとして名を挙げられ、Congressional leadershipに関する教科書の中で、ピーター・L・ステインク(Peter L Steinke)はシャクルトンを「穏やかで思慮深い態度が反射的行動の危険性を無害化させる」「不安にさせないリーダー」の典型例であると呼んでいる。2001年には、アイルランドのキルデア郡アサイにアサイ歴史遺産センター博物館が建設され、シャクルトンを称賛し極点探検の英雄時代を記念して、毎年アーネスト・シャクルトン秋季学校が開催されている。 シャクルトンの死を境に、現代の旅行手段や無線技術なしに未知の大陸を地理的・科学的に探検し発見するという南極探検の英雄時代は終わりを告げた。テラノバ遠征でスコット隊の一員だったアプスレイ・チェリー=ガラード(英語版)は、1922年に出した『世界最悪の旅(英語版)』で、「科学調査と地理調査を組織化するならスコット、冬の冒険ならウィルソン、極点に急いで行って来るだけならアムンセン、地獄から抜け出したいと思うなら断然シャクルトンだ。」と述べている。 1993年、トレヴァー・ポッツ(Trevor Potts)がシャクルトンを顕彰して、ジェームズ・ケアード号を復元し、完全な無補給でエレファント島からサウスジョージア島までボートの航海を再現した。 2002年にはチャンネル4が、ケネス・ブラナーを主役に1914年の遠征を描いた連続番組(英語版)『Shackleton(英語版)』を制作した。アメリカではA&E Network(英語版)で放送され、2つのエミー賞を受賞した。 2011年には、ロンドンで行われたクリスティーズのオークションで、1907-09年のニムロド遠征でシャクルトンが「飢えた同行者」へ与えたビスケットが1250ポンドで落札された。同年、シャクルトンの生誕137周年を記念してGoogleはGoogle Doodleでシャクルトンを採り上げた。スイスのアマチュア天文家ミシェル・オリー(英語版)は、2005年に発見した小惑星を289586 シャクルトン(英語版)と名付け、2011年12月10日に小惑星センターにより公式に認められた (M.P.C. 77510)。 2013年1月、イギリスとオーストラリアの合同チームがシャクルトンの1916年の南極海航海の再現を試みた。その航海が祖父の顕彰になると思っていたアーネストの孫アレクサンドラ・シャクルトンの願いに対して集まったチームは、探検家かつ環境科学者のティム・ジャービス(英語版)が隊長となった。この探検隊は、100年前にシャクルトンが行なった、エレファント島からサウスジョージア島への航海とキングハーコン湾からストロムネスへサウスジョージア山脈を横断する「2つの横断(double crossing)」の最初の再現者となった。 2015年10月には、シャクルトンの勲章とメダルがオークションにかけられ、585,000ポンドまで値が吊り上がった。 2016年、キルデア県議会(英語版)の支援でアサイ(英語版)に、マーク・リチャーズ(Mark Richards)作のシャクルトン像が建てられた。2017年には、オフ・ブロードウェイのトニー・カイザー劇場でミュージカル『Ernest Shackleton Loves Me』が公演された。
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20世紀後半以降
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「グリーンランドの歴史」の記事における「20世紀後半以降」の解説
1953年にグリーンランドはデンマークの植民地から海外郡に昇格し、デンマーク国会へ代表を送り込めるようになった。デンマーク政府も教育・福祉の充実に力を入れるようになり、そのために町での集住が図られることとなった。町への移住の結果、漁師の失業などが発生し、この失業問題は長くグリーンランドをわずらわせた。 デンマーク本国が欧州共同体への関与を深めていくと、その経済・関税政策は、グリーンランド住民の不満を高めることとなった。グリーンランドは、ヨーロッパではなくアメリカ・カナダとの貿易が多く、経済的利点を有さなかったためである。1973年にデンマークでは、EC加盟への国民投票が行われ、EC加盟を果たしているが、グリーンランドでは反対票が多かった。このため、グリーンランドでは自治権獲得運動が盛んになった。その結果、1978年に自治権を獲得し、1979年よりそれが発効した。一部の国際関係も自治政府の管轄にあり、1982年にはEC脱退を議決し、1985年に脱退している。また、同年にグリーンランド自治政府は地名をデンマーク語からイヌイット語に変更を行い、グリーンランドの旗の制定も行っている。独立運動の動きはあり、これまでは経済事情もあって強い動きとはなっていなかったが、イヌイット友愛党の元で独立運動は盛んとなって来ている。
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