実験について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 03:36 UTC 版)
「ジュリア・デリ・アルビッツィ」の記事における「実験について」の解説
ヴィンチェンツォは以前マルゲリータ・ファルネーゼ(スペイン王臣下で高名な武将であるパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの娘)と結婚していたが、初夜にマルゲリータに致命的な肉体的欠陥が見つかる。手術しても命の保証はなかった上、複雑な事情もあり夫婦間の問題がいつしかヨーロッパの政治上の問題にまで発展してしまった。結局2年間の「白い結婚(夫婦間の性交渉のない結婚)」の後、1583年10月30日にマルゲリータ・ファルネーゼ・ゴンザーガがマウラ・ルチェニア尼としてパルマの尼僧院に入り、永久に俗界を離れたことでこの結婚は破れた。 その後すぐ、独身に戻ったヴィンチェンツォにはトスカーナ大公の娘エレオノーラ・デ・メディチとの縁談が持ち上がったが、ファルネーゼ家辺りからは、もしかしたら原因はマルゲリータの欠陥だけでなく、ヴィンチェンツォの方にもあったのではないかという噂が広まっていた。それにエレオノーラの義母であった大公妃ビアンカ・カッペッロが目をつけた。彼女は以前、マルゲリータとの結婚前にヴィンチェンツォの花嫁候補にエレオノーラの名も挙がったとき、ヴィンチェンツォの父であった当時のマントヴァ公が「情人あがりの女に育てられた娘など困る」と言ったことを覚えていた(ビアンカが当時は大公妃でも、長らく大公の愛人であったことは周知の事実であった)。彼女はその時に受けた侮辱をここぞとばかりに晴らそうと思ったらしく[要出典]、婚約の条項の中に「ヴィンチェンツォとエレオノーラの婚約は、ヴィンチェンツォが然るべき処女との試みに成功し、結婚生活に適当であると証明された後に初めて成立する」という一項を付け加えさせた。 1584年3月14日の夜、ヴェネツィアで行われた試験は無事に成功した。その後聖アンドレア寺院で婚約成立を神に謝すミサが行われ、4月29日には、ヴィンチェンツォとエレオノーラの婚礼がマントヴァで行われた。
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