シャクルトンの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 00:20 UTC 版)
「シャクルトン=ローウェット遠征」の記事における「シャクルトンの死」の解説
クエストがリオを離れる予定日の前日だった12月17日、シャクルトンが病気になった。心臓病を患っていた可能性がある。マクリンが呼ばれたが、シャクルトンは検査されるのを拒み、翌朝には「良くなった」と宣言した。その後のサウスジョージアまでの航海では、同船者の証言に拠ると、異常なほど落ち着き、無関心だった。毎朝シャンペンを飲み始め、「痛みを和らげるため」と言っていたが、航海中は酒を認めていなかった通常の規則には反していた。激しい嵐のために計画されていたクリスマスの祝いが中止され、エンジンの蒸気炉の新しい問題で進行が遅れ、シャクルトンにさらにストレスを与えた。1922年1月1日までに天候は落ち着いていた。「嵐の後の休息と静けさ、新年は我々に優しく始まった」とシャクルトンは日記に記していた。1月4日、サウスジョージアが視認され、その朝遅くにクエストはグリトビケン港に停泊した。 シャクルトンは岸にある捕鯨用施設を訪れた後、明らかにリフレッシュした様子で船に戻った。フランク・ワイルドに、翌日に中止されていたクリスマスを祝おうと告げ、日記を書くために船室に入った。「死んだ鯨の古い臭いがあらゆる物に染み込んでいる」と記し、「ここは奇妙で興味ある場所である。...素晴らしい夜だ。暗くなっていく薄暮の中で、1つの星が浮かんでいるのを見た。湾の上の宝石のようだった」と書いていた。その後シャクルトンは眠った。船医のマキルロイは交代張り番を終えたときに、いびきを聞いた。1月5日午前2時を回った頃、張り番を終わったマクリンがシャクルトンの船室に呼ばれた。マクリンの日記に拠れば、シャクルトンが背中の痛みと激しい顔面神経痛を訴えており、痛み止め薬を求めた。マクリンは短く相談した間に、日々負担がかかりすぎており、もっと通常の生活を送る必要があると伝えた。マクリンはシャクルトンが「貴方はいつも私に物事を諦めさせたがる。私が今諦めなければならないのは何だろう?」と尋ね、マクリンは「主にアルコールだ、ボス、この点は貴方に良いとは思えない」と答えた会話を記録している。その直後にシャクルトンは「大変激しい発作が起こり、そうしているうちに死んだ」と記録した。47歳だった。 マクリンが署名した死亡診断書では、死因を「冠状動脈の粉瘤と心臓まひ」と記されており、現代の言葉では冠状動脈血栓だった。その朝遅く、このとき隊長になっていたワイルドは、乗組員に訃報を伝え、遠征は続行されると告げた。遺体は岸に移され、イングランドに戻すまえに防腐処置を施された。1月19日、レナード・ハッシーが遺体に付き添ってモンテビデオに向かう蒸気船に乗ったが、そこに着いたときにシャクルトン夫人からの伝言が届いており、遺体をサウスジョージアに戻してそこで埋葬するよう求めていた。ハッシーはイギリスの蒸気船に遺体を載せ、グリトビケン港に戻った。3月5日、シャクルトンはノルウェー人の墓地に埋葬された。その間もクエストは航行を続けていたので、シャクルトンの仲間としてハッシーが参列しただけだった。粗い作りの十字架がその墓を示していた。6年後に背の高い花崗岩の柱がそれに代わった。
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