1901-03年、「ディスカバリー遠征」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:02 UTC 版)
「アーネスト・シャクルトン」の記事における「1901-03年、「ディスカバリー遠征」」の解説
詳細は「ディスカバリー遠征」を参照 「ディスカバリー号(英語版)」にちなみディスカバリー遠征として知られる国立南極遠征(National Antarctic Expedition)は、王立地理学会会長のサー・クレメンツ・マーカムが発案し、準備に長年かけていたものである。遠征隊はイギリス海軍の水雷大尉で最近中佐へ昇格したロバート・ファルコン・スコットが隊長となり、科学や地理学上の発見も目的としていた。 ディスカバリー号は海軍の船ではなかったが、スコットは艦隊訓練法(Naval Discipline Act)に基づく制約を受け入れる船員や士官、科学スタッフを求め、船と遠征隊は海軍の方針に従って運営された。シャクルトンは、彼の生い立ちや天性から、それとは違うもっと堅苦しくない統率を好んでいたにもかかわらず、これを受け入れた。シャクルトンの任務は以下の通りであった。「海水分析担当。上級士官室のサービス係。船倉、備品、食糧担当。(中略)そのほか、娯楽を企画する。」 「ディスカバリー号」は1901年7月31日にロンドンを出発し、ケープタウンとニュージーランドを経て、1902年1月8日に南極大陸に到着した。上陸後、シャクルトンは2月4日に観測気球飛行に加わった。また、科学者のエドワード・エイドリアン・ウィルソン(英語版)とハートレー・フェラー(英語版)とともに、マクマード湾(英語版)にある遠征隊の冬営地からロス棚氷への安全なルートを確立する最初のソリ旅行に参加した。1902年の冬には、氷に閉ざされたディスカバリー号で、シャクルトンは遠征隊の雑誌『The South Polar Times(英語版)』の編集を行った。 スコットのリーダーシップに対し水面下で対抗することを示していたという主張は支持されなかったが、給仕のクラレンス・ハレ(英語版)によると、シャクルトンは「船員の間で最も人気がある士官で、付き合いが良かった」。スコットは南極点の方向へ最南端到達記録の更新を目指すパーティに自分自身とウィルソンのほかにシャクルトンを加えた。スコットにとって最南端記録の更新はとても重要であったが、この踏破行は南極点を目指す真剣な挑戦ではなかった。そしてシャクルトンを加えたことは高い個人的な信頼を表していた。 パーティは1902年11月2日に出発した。この踏破行は、後にスコットが記したように、「成功と失敗が組み合わさっていた」。南緯82°17'に到達し、1900年のカルステン・ボルクグレヴィンクによる記録を更新した。しかし餌が傷みすぐに病気になった犬たちのせいで踏破行は台無しになり、22頭いた犬は全て死んだ。また、3人とも、時々雪目や凍傷、そして終いには壊血病に苦しんだ。帰路で、シャクルトンは自身が認めているように「衰弱し」、自分の仕事をこなすことができなくなった。 シャクルトンは後に、スコットが『The Voyage of the Discovery』で彼がソリで運ばれたと書いたことを否定した。しかし実際、かなりの衰弱状態にあった。ウィルソンは1月14日の日記に「シャクルトンは以前から体調が優れていなかったが、今日ひどく悪化した。すぐに息切れし絶えず咳をしている。ここで詳細を書く必要はないが、船から160マイル離れた場所であることを踏まえれば軽微とは言えない深刻な症状もある。」と記している。 1903年2月4日にパーティはなんとか船にたどり着いた。(決定的でない)健康診断の後、スコットはシャクルトンを、1903年1月にマクマード湾に着いていた補給船「モーニング号(英語版)」に乗せて本国へ帰すことを決めた。スコットは「彼の現在の健康状態を踏まえれば、さらなるリスクを負うべきではない」と記した。なお、スコットがシャクルトンの人気に苛立ち、健康悪化を彼を追い出す理由にしたという推測もされている。 スコット、ウィルソン、シャクルトンの死から数年後、遠征隊の副隊長であったアルバート・アーミテージ(英語版)が、南への行軍の間仲間割れが生じており、スコットが船医に「彼は病気になっていなくても不名誉除隊で本国送りになっていただろう」と語っていたと主張した。だがアーミテージの話に証拠はなく、少なくともスコットが『The Voyage of the Discovery』で南への踏破行について書くまでは、シャクルトンとスコットは友好関係にあった。彼らは表向きはお互いに敬意を表し親身であり続けたが、伝記作家のローランド・ハントフォード(Roland Huntford)によると、シャクルトンのスコットへの態度は「怒りをあらわに軽蔑し嫌う」ようになった。そして傷ついたプライドを癒すために、「南極へ戻り、スコットを上回るための挑戦」が必要となった。
※この「1901-03年、「ディスカバリー遠征」」の解説は、「アーネスト・シャクルトン」の解説の一部です。
「1901-03年、「ディスカバリー遠征」」を含む「アーネスト・シャクルトン」の記事については、「アーネスト・シャクルトン」の概要を参照ください。
- 1901-03年、「ディスカバリー遠征」のページへのリンク