1901–1919: 篤志家として
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「アンドリュー・カーネギー」の記事における「1901–1919: 篤志家として」の解説
引退後のカーネギーは篤志家として活躍した。慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。 スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益と社会的・教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、スペル改正(英語版)運動を強力に支持した。 彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している。 イリノイ州マコームにあるカーネギー図書館 シラキュース大学のカーネギー図書館 19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。 ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。 カーネギーメロン大学 ピッテンクリーフ公園(ダンファームリン) 1901年、カーネギーが寄付した200万ドルでピッツバーグにカーネギー工科大学 (Carnegie Institute of Technology) (CIT) が創設され、1902年にも同額を寄付してワシントンD.C.にワシントン・カーネギー協会が創設された。その後も両組織に寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後にカーネギーメロン大学の一部となっている。コーネル大学では理事を務めた。 ジョージ・ヘールはワシントン・カーネギー協会の支援でウィルソン山天文台の257センチ反射望遠鏡建設を建設していたが、カーネギーは存命中にその完成を迎えたいと考え1911年に同協会に1000万ドルを寄付し、建設促進を図った。望遠鏡は1917年11月2日にファーストライトを迎えた。カーネギーが亡くなったのはその後である。 1901年には1000万ドルの醵出によってスコットランド・カーネギー基金(英語版)が設立された。彼が契約書に署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日に設立認許状が発効した。当時スコットランドの4大学への政府の補助金は5万ポンドしかなかった。トラストの目的はスコットランドの大学での科学研究を発展させ、スコットランドの優秀な若者が大学に進学できるようにすることである。カーネギーはセント・アンドルーズ大学の名誉総長に選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額の寄付をしている。図書館に加え、個人的に土地を買いピッテンクリーフ公園(英語版)として一般開放した。またダンファームリンの住民のために Carnegie Dunfermline Trust を設立している。2013年現在、ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに Carnegie United Kingdom Trust 設立に1000万ドルを寄付し、補助金の基金とした。 1901年、ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金も創設している。1905年にはカーネギー教育振興財団を設立、さらにアメリカの大学教授たちのための年金を創設し、これはTIAA-CREFの一部となった。なお、何らかの宗教を背景にした大学はその宗教との関係を断ち切ることが年金加入の条件になっていた。 音楽を愛したカーネギーは7,000台の教会用オルガンを作らせている。1891年に建設したカーネギー・ホールは寄贈せずに所有していたが、1925年に彼の未亡人が売却した。ただし2013年現在もそのままの名前が使用されている。 ブッカー・T・ワシントンが黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校(英語版)も支援している。また、ワシントンが National Negro Business League を創設するのも支援した。 1904年、アメリカとカナダで英雄的行為(自己犠牲的行為)を表彰するカーネギー英雄基金(英語版)を創設。同様の基金を後にイギリス、スイス、ノルウェー、スウェーデン、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマーク、ドイツにも創設した。1903年にはオランダのデン・ハーグにて平和宮を建設する資金として150万ドルを寄付し、この建物は後に国際司法裁判所として使用されている。 カーネギーの慈善活動と芸術振興を称えて1917年10月14日、ボストンのニューイングランド音楽院にてカーネギーを Phi Mu Alpha Sinfonia というフラタニティの名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティの理念とカーネギーの若者の才能を伸ばすという価値観が一致したためである。 19世紀当時の富豪の基準をもって判断すれば、カーネギーは特に冷酷な男というわけではなく、「冷徹に利益を追求する貪欲さは十分持ち合わせている人道主義者」、ということになる。別の言い方をするならば(今日的な視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギーは自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントした。 スコットランドからの移民の子が成功したということで、カーネギーをアメリカン・ドリームの体現者だと見る人もいる。彼は成功を収めただけでなく篤志家としても活動し、さらには植民地化された国々の民主化と独立も実現しようと努力した。
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