1901–1919: 篤志家としてとは? わかりやすく解説

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1901–1919: 篤志家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 02:12 UTC 版)

アンドリュー・カーネギー」の記事における「1901–1919: 篤志家として」の解説

引退後カーネギー篤志家として活躍した慈善活動に関する考え方については既に Triumphant Democracy (1886) と『富の福音』(1889) において表明していた。 スコットランドのスキボ城(英語版)を購入し、そことニューヨークを生活拠点とした。それからの人生は、公共の利益社会的教育的発展のために資産を使うことに捧げた。また英語の発展のため、スペル改正英語版運動強力に支持した彼の様々な慈善活動中でも突出しているのは、アメリカ合衆国イギリス、他の英語圏国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館呼ばれ数多くの場所に建てられた。最初図書館1883年故郷ダンファームリン開館した彼の手法は、地元自治体土地運営予算用意できた場合だけ、建物初期蔵書提供するというものだった地元に対しては、1885年ピッツバーグ公共図書館用に50ドル寄付し1886年にはアラゲイニーに音楽ホール図書館用に25ドル寄付しエディンバラにも図書館用に25ドル寄付した全部で3,000弱の図書館設立資金提供しており、アメリカ47州、カナダイギリスアイルランドオーストラリアニュージーランド西インド諸島フィジー建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンド寄付している。 イリノイ州マコームにあるカーネギー図書館 シラキュース大学カーネギー図書館 19世紀末アメリカでは無料図書館市民開放すべきだという考え方一般にみられた。しかし、理想的な無料図書館デザインについて白熱した議論が戦わされていた。図書館専門家管理運営効率化できるデザイン要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民誇りとなるような建物好んだ1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者考え折衷し図書館慈善的な面と効率的デザイン追求したニューヨーク州ブルーム郡公共図書館1904年10月開館した当初ビンガムトン公共図書館呼ばれカーネギーの75千ドル寄付建てられたものである。この建物公共図書館公民館として使えるよう設計された。 カーネギーメロン大学 ピッテンクリーフ公園ダンファームリン1901年カーネギー寄付した200ドルピッツバーグカーネギー工科大学 (Carnegie Institute of Technology) (CIT) が創設され1902年にも同額寄付してワシントンD.C.ワシントン・カーネギー協会創設された。その後も両組織寄付をしており、他の大学にも寄付をしている。CITは後にカーネギーメロン大学一部となっている。コーネル大学では理事務めたジョージ・ヘールワシントン・カーネギー協会支援ウィルソン山天文台257センチ反射望遠鏡建設建設していたが、カーネギー存命中にその完成迎えたい考え1911年に同協会1000万ドル寄付し建設促進図った望遠鏡1917年11月2日ファーストライト迎えたカーネギー亡くなったのはその後である。 1901年には1000万ドル醵出によってスコットランド・カーネギー基金英語版)が設立された。彼が契約書署名したのは1901年6月7日で、1902年8月21日設立認許状が発効した当時スコットランド4大学への政府補助金5万ポンドしかなかった。トラスト目的スコットランド大学での科学研究発展させ、スコットランド優秀な若者大学進学できるようにすることである。カーネギーセント・アンドルーズ大学名誉総長選ばれた。故郷ダンファームリンにも多額寄付をしている。図書館加え個人的に土地を買いピッテンクリーフ公園英語版)として一般開放した。またダンファームリン住民のために Carnegie Dunfermline Trust設立している。2013年現在ダンファームリンにはカーネギーの像がある。1913年にはさらに Carnegie United Kingdom Trust 設立1000万ドル寄付し補助金基金とした。 1901年ホームステッドのかつての従業員のために大規模な年金創設している。1905年にはカーネギー教育振興財団設立、さらにアメリカ大学教授たちのための年金創設し、これはTIAA-CREFの一部となった。なお、何らかの宗教背景にした大学はその宗教との関係断ち切ることが年金加入条件になっていた。 音楽愛したカーネギーは7,000台の教会オルガンを作らせている。1891年建設したカーネギー・ホール寄贈せずに所有していたが、1925年彼の未亡人売却した。ただし2013年現在そのままの名前が使用されている。 ブッカー・T・ワシントン黒人教育のために創設したタスキーギ職業訓練校英語版)も支援している。また、ワシントンNational Negro Business League創設するのも支援した1904年アメリカとカナダ英雄的行為自己犠牲行為)を表彰するカーネギー英雄基金英語版)を創設同様の基金を後にイギリススイスノルウェースウェーデンフランスイタリア、オランダベルギーデンマークドイツにも創設した1903年にはオランダデン・ハーグにて平和宮建設する資金として150ドル寄付し、この建物は後に国際司法裁判所として使用されている。 カーネギー慈善活動芸術振興称えて1917年10月14日ボストンニューイングランド音楽院にてカーネギーPhi Mu Alpha Sinfonia というフラタニティ名誉会員とする式典が行われた。同フラタニティ理念カーネギー若者才能伸ばすという価値観一致したためである。 19世紀当時富豪基準をもって判断すればカーネギーは特に冷酷なというわけではなく、「冷徹利益追求する貪欲さは十分持ち合わせている人道主義者」、ということになる。別の言い方をするならば(今日的視点で見ると)、彼の生活(水準)と彼が雇っていた労働者たちや貧困者たちの生活(水準)は著しく異なっていた。伝記作家 Joseph Wall は「おそらくカーネギー自分の金を分け与えることでその金を集めるためにしてきたことを正当化しようとしたのだろう」とコメントしたスコットランドからの移民の子成功したということで、カーネギーアメリカン・ドリーム体現者だと見る人もいる。彼は成功収めただけでなく篤志家として活動しさらには植民地化された国々民主化独立実現しよう努力した

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