シャクルトンとスコット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 09:56 UTC 版)
「クレメンツ・マーカム」の記事における「シャクルトンとスコット」の解説
ディスカバリーが帰還して数か月後、マーカムは王立地理学会長からの辞職を発表した。既に75歳になっており、その伝記作者に拠れば、その地理学で活動した時代は終わったと感じていた。会長職にあった12年間はそれまでの最長記録だった。王立地理学会委員会の委員には留まり、副委員長であり、南極探検、特に辞任から5年後に出発した2回のイギリス遠征隊について活発な興味を持ち続けた。最初の遠征はアーネスト・シャクルトン、2回目の遠征はロバート・スコットが率いた。 ディスカバリー遠征のときに、民間の主要寄付者からの推薦で、シャクルトンをディスカバリーの三等航海士指名に合意した。シャクルトンが健康を害して早期に帰還すると、それに同情し支持を与えた。またシャクルトンのイギリス海軍任官が出来なかったときも支援した。後にシャクルトンが独自の遠征隊を率いて行く意図を表明したとき、マーカムは寛大な推薦状を提供し、シャクルトンのことを「事業の困難さや危険を含め、その任に当たるに適した人物」であり、「極地探検の指導者に立派に適応している」と表現していた。シャクルトンが行った1907年から1909年のニムロド遠征に強い支持を表明し、「私の心から貴方の成功を願っていることだけでなく、それなりの期待を持っている」と言っていた。この遠征隊が新たな最南端記録南緯88度23分を打ち立てたという知らせが届くと、マーカムはシャクルトンに王立地理学会の庇護者メダルを贈る意図があることを公言した。 しかし、マーカムは気が変わり、当時の王立地理学会長レナード・ダーウィンに手紙を書いて、シャクルトンの主張する最南端到達点に不信を表明し、同じことをスコットにも伝えた。歴史家達は、スコットがマーカムの被庇護者であり、この老人は極地の栄光が他の者に行くことが不満だったと推測している。その理由が何であれ、マーカムはシャクルトンに厳しく当たるようになり、それは終生続いた。ディスカバリー遠征についてマーカム自身のノートでシャクルトンに関する好意的な言及を削除したと言われており、1912年のイギリス協会での演説でもシャクルトンの業績を事実上無視した。マーカムの著した南極探検歴史書『沈黙の大陸』(1921年の死後出版)でも同様にシャクルトンを無視している。 対照的にマーカムはスコットと親密な個人的関係を継続し、1909年9月14日に生まれたスコットの息子の名付け親となり、自分の名前からピーター・マーカム・スコットと名付けた。その著書「スコットの最後の遠征』(1913年出版)序文のスコットに対する献辞で、スコットのことを「我々の時代の最も注目すべき人物」とし、その性格の「美」を語っている。スコットが死にかかっているときに、「自分のことは考えなかった。他の者に対する快適さと慰めを与えることのみ熱心に考える人だった」と記した。スコットはその最後のキャンプ地で死ぬ数日前に書いた手紙で、「クレメンツ卿には、私が彼のことを重視していた。彼がディスカバリーの隊長に私を指名したことも決して後悔していないと伝えてくれ」と記されていた。
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