小栗宗湛とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 文化 > 美術 > 画僧 > 小栗宗湛の意味・解説 

おぐり‐そうたん〔をぐり‐〕【小栗宗湛】


小栗宗湛

読み方おぐり そうたん

室町中期臨済宗画僧足利将軍家御用絵師。名は助重、字は小二郎通称小栗判官・宗丹上座、号は自牧、宗丹は法諱季瓊養叟宗頤師事、画は周文に学ぶ。室町殿花御所)の造築に絵師として関与足利義政から扶持を受ける。山水人物花鳥画に秀れ、周文歿後その後継者となる。門下狩野正信がいる。文明13年1481)歿、68才。

宗湛

(小栗宗湛 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 08:42 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

宗湛(そうたん、応永20年(1413年) - 文明13年3月9日1481年4月16日))は、室町時代中期の画宗丹とも書く。字は小二郎(または小三郎)。自牧と号した。小栗満重の子。

生涯

武将・小栗助重として

鎌倉府鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら室町幕府征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆の一つである常陸小栗氏の出身であり、初めは小栗 助重(おぐり すけしげ)という名(俗名)の武将であった。この頃の常陸小栗氏は、応永30年(1423年)に小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対し反乱(小栗満重の乱)を起こして没落していた。その持氏が永享の乱を起こして自害すると、結城氏朝がその遺児(足利春王丸足利安王丸)を擁して挙兵するが(結城合戦)、満重の子または弟(前者が有力)である助重がこの戦いで武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継承。しかし、のち康正元年(1455年)に享徳の乱の最中で持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、まもなく出家宗湛入道と号す。

画僧・宗湛として

出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文水墨画を学んだ。寛正3年(1462年)、京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府8代将軍足利義政に認められ、翌寛正4年(1463年)に周文の跡を継いで足利将軍家御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している。文明5年(1473年)頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている。狩野元信の師にあたる[1]

代表作

伝宗湛作品

脚注

  1. ^ 石川恒太郎『日本浪人史』西田書店、1980年、P.117。

関連項目

参考資料

  • 金沢弘『日本の美術334 水墨画 如拙・周文・宗湛』至文堂、1994年
  • 『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社)より「小栗宗湛」(関幸彦執筆)



小栗宗湛と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小栗宗湛」の関連用語

小栗宗湛のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小栗宗湛のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宗湛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS