活躍と画風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:54 UTC 版)
京では幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したものと思われる。また、『尋尊大僧正記』には、「土佐弟子」と記されており土佐派との繋がりを想像させるが、大和絵を描いた遺品、または描いたとされる史料は皆無であることから、土佐家との何らかの関係を持ちつつも、正信が傍流的な立場であったことを示唆している。正信に関する最初の記録は、季瓊真蘂が筆録した『蔭凉軒日録』の寛正4年(1463年)7月相国寺雲頂院の昭堂に十六羅漢を描いたという記事である。以後20年間記録は途絶えるが、文明15年(1483年)には足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当している。明応5年(1496年)には日野富子の肖像を描いた(『実隆公記』)。 現存する作品中では、中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』(しゅうもしゅく あいれんず)が、それまでの室町水墨画と異なり全てのモチーフが平明にわかりやすく描かれており、正信自身のみならず後の狩野派の進むべき方向をも決定づけた代表作と見なされている。他に九州国立博物館蔵の『山水図』双幅、個人蔵の水墨の『山水図』、文化庁蔵の『崖下布袋図』(景徐周麟賛)などが古来著名である。大徳寺塔頭真珠庵の『竹石白鶴図』(六曲屏風1隻)も印章等はないが、古くから正信作とされている。 画風は、現存作品から見る限りでは漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法によるものが多いが、なかで『周茂叔愛蓮図』は画面上半分に余白を大きく取り、近景の柳の大木の緑が印象的な平明な画面で、他の作品とはやや異質な感がある。また、『文殊菩薩図』(群馬県立近代美術館)のような仏画の遺品や、扇面画も5点ほどあり、職業絵師として多様な画題、画風をこなしていたものと思われる。 山水図(双幅のうち)九州国立博物館蔵 重要文化財 日親像 京都・本法寺蔵 重要文化財
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