活躍とその後とは? わかりやすく解説

活躍とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 15:38 UTC 版)

孫武」の記事における「活躍とその後」の解説

512年孫武将軍任じられ楚国衛星国であった鍾吾(中国語版)国と徐国を攻略した闔閭勝利乗じて楚国進攻ようとしたが、孫武は「楚国衰えてもいまだ強大です。また呉は戦い続き兵が疲弊してます。今、攻めるのは上策ではありません」と進言した。闔閭はこの意見従い、また伍子胥献策により、小部隊で国境絶え挑発し、大軍国境に貼りつかせ、国力消耗させる作戦をとる。 6年後の前506年は呉の保護にあった地方領主・唐の成公と蔡の昭侯攻め二人は呉に救援求めた。機が熟した考えた闔閭孫武伍子胥左右の将として軍を発し、呉と両軍漢水河畔挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武陽動作戦によって楚軍主力別の地域におびき出され呉軍本隊現れ首都に向かうとの情報急遽転進してきたため、戦場到着したときには強行軍連続で既に疲弊しきっていた。三呉軍二十楚軍大い破り、さらに進撃して五戦して五勝し、十日のうちに王都・郢城を陥落させて昭王逃亡させる強国大軍寡兵破ったこの戦いにより孫武の名は中原轟いたその後の臣の申包胥が秦に逃亡し彼の策によって秦が呉国攻めたので、呉軍やむなくから撤退した以後呉は北方の斉、晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績孫武働きによるところが大きかった。 前496年闔閭孫武意見を容れず越を攻めた苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷悪化して死亡した孫武伍子胥とともに太子夫差補佐して国力養い、のちに呉は夫で越を大敗させ雪辱果たした孫武後半生については記録残っていない。後漢の『載記』が引く『呉越春秋夫差内伝によれば孫武讒言する者があって辞職願い出たといい、以後呉国に関する史書からは、孫武に関する記述途絶えるその後夫差次第慢心するようになり、讒言によって孫武莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。 孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓孫武のものであるという説もあるが確定していない。

※この「活躍とその後」の解説は、「孫武」の解説の一部です。
「活躍とその後」を含む「孫武」の記事については、「孫武」の概要を参照ください。

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