活躍とその後
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前512年、孫武は将軍に任じられ、楚国の衛星国であった鍾吾(中国語版)国と徐国を攻略した。闔閭は勝利に乗じて楚国に進攻しようとしたが、孫武は「楚国は衰えてもいまだ強大です。また呉は戦いが続き兵が疲弊しています。今、楚を攻めるのは上策ではありません」と進言した。闔閭はこの意見に従い、また伍子胥の献策により、小部隊で楚の国境を絶えず挑発し、楚の大軍を国境に貼りつかせ、楚の国力を消耗させる作戦をとる。 6年後の前506年、楚は呉の保護下にあった地方領主・唐の成公と蔡の昭侯を攻め、二人は呉に救援を求めた。機が熟したと考えた闔閭は孫武と伍子胥を左右の将として軍を発し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武の陽動作戦によって楚軍主力は別の地域におびき出され、呉軍本隊が現れ首都に向かうとの情報で急遽転進してきたため、戦場に到着したときには強行軍の連続で既に疲弊しきっていた。三万の呉軍は二十万の楚軍を大いに破り、さらに進撃して五戦して五勝し、十日のうちに楚の王都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させる。強国・楚の大軍を寡兵で破ったこの戦いにより孫武の名は中原に轟いた。 その後、楚の臣の申包胥が秦に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたので、呉軍はやむなく楚から撤退した。 以後呉は北方の斉、晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。 前496年、闔閭は孫武の意見を容れず越を攻めたが苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷が悪化して死亡した。孫武は伍子胥とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たした。 孫武の後半生については記録が残っていない。後漢の『載記』が引く『呉越春秋』夫差内伝によれば、孫武は讒言する者があって辞職を願い出たといい、以後の呉国に関する史書からは、孫武に関する記述が途絶える。その後夫差は次第に慢心するようになり、讒言によって孫武の莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良に取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。 孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓が孫武のものであるという説もあるが確定していない。
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