不作による米価高騰と幕府の対応
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「天明の打ちこわし」の記事における「不作による米価高騰と幕府の対応」の解説
天明6年は主に風水害によって全国の広い地域が凶作となり、米の収穫高が激減した。全国的な米の不作による米価高騰に危機感を抱いた幕府はその対策に乗り出した。まず天明4年1月から9月にかけて施行された米穀売買勝手令を天明6年9月20日(1786年10月11日)に再公布した。これは天明4年時と同じく、決められた業者以外が米の流通、販売を行うことを認め、江戸に持ち込まれた米を問屋を通さずして自由に販売してよいとする米穀売買勝手令によって米の流通を活性化させ、その結果米価の引き下げを図ることを狙ったものであった。米穀売買勝手令によって大坂から江戸へ向けての米の流通は活性化したが、「脇々米屋素人」と言われる決められた米を扱う業者以外の商人が投機目的で米の買占めを図ったため、実際の米の流通量は期待通りに増加せず、米価高騰は収まらなかった。結局期待通りの成果を挙げられぬまま、米穀売買勝手令は天明6年11月8日(1786年12月28日)に廃令となる。 米穀売買勝手令の廃止後、天明6年11月29日(1787年1月18日)に江戸町奉行は大坂から江戸にもたらされた米を仲買を通さずして小売を行えるようにした。これは米の流通時において仲買のマージンをなくすことによって米価の引き下げをもくろんだものであった。しかしこの政策は流通現場に混乱をもたらしたということで、早くも天明6年12月23日(1787年2月10日)には引っ込められ、替わりに仲買時などの流通経費の縮減を図るよう命じた。このように幕府当局の高米価抑制策の基本は、米穀売買勝手令の挫折後もあくまで米の流通促進など流通面に対する対処であった。しかし実際には米価高騰による更なる利益をもくろむ商人たちによって売り惜しみが発生しており、米の多くは「隠れ米」となって市場流通量が少ない状況が続き、事態の好転は見られなかった。 また幕府は米を用いる酒造の制限に乗り出した。天明6年9月22日(1786年10月13日)、米価が下落するまで酒造を半減させるよう命じる法令を出す。これは酒造による米の消費を抑え、米の絶対量を確保することを目的とした法令であった。そして天明6年10月には江戸町奉行は搗米屋仲間の米の小売価格に安価な公定価格を定めるという米価を直接操作する措置も行った。しかし年貢米を売却するレートである蔵米相場を市価の高い水準に据え置いたため、小売レートを安く設定された上では米屋は高価格の蔵米の購入が困難となってすぐに行き詰まり、安価な公定小売価格の設定はすぐに引っ込められてしまった。 結局先の天明4年の米価高騰時に江戸、大坂、京都の三都で行われた、市価よりも安価でのお救い米の放出という高米価に対する積極的な対策は、天明6年から7年にかけての米価高騰時は大規模な打ちこわし前には実施されることがなかった。江戸町奉行は天明6年閏10月から天明7年3月にかけてと天明7年5月に、著しく生活に困窮している貧民に対してお救い米の支給を行ったが、対象が限定されており米価高騰に苦しむ人々にとうてい行き渡るものではなかったため、米価高騰に対して有効な対策を取りえない幕府に対する不満が徐々に高まっていった。 もともと幕府は米価の異常な高騰によって多くの人々が苦しむ状態となっても、米の値段を強制的に下げることを目的とする公定価格を導入したり、備蓄している米を安価で放出するなどという米価高騰に対する直接的な対応策を取ることは少なかった。これは江戸幕府の基本制度の一つである石高制の根本的な矛盾が原因であった。つまり江戸時代の幕府、諸藩を始めとする武士階級の主たる収入は年貢米であり、米価高騰は収入の増加に直結するため、いくら民衆が生活苦に追い込まれようが高米価を歓迎し、商人らの米の買い占めに対する取り締まりもおろそかになりがちであった。天明6年10月に江戸町奉行が行った米の小売価格設定も、安価な小売価格を設定するのみで元売り価格には手をつけようとしなかったために破綻するなど、天明6年から7年にかけての米価高騰でもその対応策が不十分かつ後手後手に廻ってしまい、全国各地で激しい打ちこわしが発生するという最悪の結果を招くことになった。
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