挫折後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/12 08:26 UTC 版)
「アフマド・オラービー」の記事における「挫折後」の解説
オラービーは逮捕され、12月3日に死刑判決を受けるも、エジプト民族主義運動に同情的なイギリス人著名人の嘆願などでタウフィークから減刑が認められ、英領セイロン島に流刑となった。 セイロンに流されていた際、谷干城(当時、農商務大臣)、東海散士(同秘書官)が彼を訪ね会見している。東海散士は後に『埃及近世史』を著した。 1901年に恩赦され、エジプトへ帰国するもすでに民衆からは忘れされた存在となっており、民族主義指導者層の間でも改革を急ぎすぎてイギリス占領を招いた人物として評価は低くなっていた。以降は政治に関わることなく、1911年にカイロで死去。 1952年のエジプト革命後、ガマール・アブドゥル=ナーセルらから「エジプト民族主義の父」として名誉回復され、エジプトの民族的英雄に昇華した。
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