挫折、そして復帰へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:10 UTC 版)
「ロリン・マゼール」の記事における「挫折、そして復帰へ」の解説
しかし、1984年にウィーンのポストを追われてからは、それまでとは一転して、マゼールの指揮者人生に波乱の影がさしてゆく。この時期のマゼール最大の挫折は、ヘルベルト・フォン・カラヤン辞任後の後任を探していたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督のポストを逃したことであった。マゼールは、ベルリン・フィルとは1950年代後半からドイツ・グラモフォンにレコーディングを行う(この時期の同団はカラヤンだけでなくケンペ、ベーム、クリュイタンスなど数人の指揮者と継続的な録音を行っており、その中でマゼールはとびぬけて若かった)など30年来の関係であり、1960年代には西ベルリンの残る二大団体(ドイツオペラ、放送交響楽団)を長らく統率して市民にも馴染みが深かった。マゼール自身、「自分が間違いなく選ばれる」と思っていたこともあり、「新音楽監督はマゼール」というムードが広がっていたが、結果として選ばれたのはクラウディオ・アバドだった。マゼールの落ち込みようは凄まじく、以後1999年までベルリン・フィルの出演要請に応えなかったほどであった。ウィーン・フィルとこそ関係は切れなかったが、同国立歌劇場とベルリン・フィルは、カラヤンが楽壇の帝王と呼ばれ始めた時期に統べた二大ポジションであり、それが同時にマゼールの手からすべり落ちたことになる。その後短期間だが出演料の支払い通貨を指定したりコンサートの客入りが悪いとドタキャンするなど傲慢な態度を示すようになった。しばらくの間はバイエルン放送交響楽団と古巣のピッツバーグ交響楽団の音楽監督を務める傍らで、1994年からはニューイヤーコンサートに復帰。またヴァイオリニストとしてのCDのリリースや、作曲活動の開始など落選の傷を癒すかのごとく活動の場を広げた。音楽活動の一方で、環境問題への提言や国際連合諸機関に対するチャリティー・コンサートに取り組むなど慈善活動も活発に行うようになり、国際連合からは「国連友好大使」の称号を、またフランス、ドイツ、イタリアなどからは各国の最高級の勲章を授与されている。
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